豊前松山城〔豊前・黒田氏 北部守護の拠点 ~ 福岡県京都郡苅田町松山〕

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本日最後の目的地、4ヶ所目となる『豊前松山城』に到着。
ここ豊前松山城は、私の実家から車で3分のところ。
なのに、この城跡の存在すら知らなかった私です。

歴史は古く、740年 藤原広嗣により築城され、その後は神田氏が18代に渡り城を守ります。神田氏の後、目まぐるしく城主が変わり、14世紀後半に周防の大内氏が
豊前国守護となります。大内氏が滅ぶと、安芸・毛利氏と豊後・大友氏による松山城の争奪戦が行われ、毛利軍勝利によって小早川隆景が入城しています。

1562年 毛利氏は領国内の反乱鎮圧のために松山城を退去します。そのため、豊前国は大友氏の支配下となりますが、1578年 大友氏は島津氏に大敗し、一気に勢力を弱めます。そして、豊臣秀吉の九州征討が始まるわけです。

豊臣秀吉は、黒田官兵衛を軍奉行とし、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景ら毛利勢に豊前国への出陣を命じます。まずは小倉城を攻め落とし、松山城へ陣を進めますが、松山城はすぐに降伏し城を明け渡したと伝えられています。

その後、九州制圧を終えた秀吉によって、戦功として「豊前国8郡」を与えられた黒田官兵衛は、松山城の改修を行っています。松山城跡から黒田官兵衛ゆかりの「瓦」が出土しているそうです。

さて、松山城跡の駐車場に着き、

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案内板の説明を読みます。説明にもあるように、難攻不落の要塞として作り上げた山城であり、小早川隆景も『豊前国一の堅固な城』と称賛しているそうです。

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『松山城自然歩道案内図』を見ると、これまた山頂の城跡まではかなりの時間を要しそうな感じです。とりあえず、

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この矢印に従い、歩を進めます。そして、

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登山道入口への案内。さらに進み、

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山頂に向かって延々と続く階段を見たところで、今日は断念。
なんせ、時間が無いもので・・・。(-_-;)

せめても・・・、と思い、

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松山城跡のふもとから遠景を撮影。山の中央部が本丸跡と思われる場所。
次回こそは、必ず山頂まで登ることを心に決めて、今から帰途につきます。
たったの3分で実家ですが・・・。

今日一日、巡り歩いた4ヶ所の城址・史跡の内、3ヶ所は登山ルートがあり、
この3ヶ所(馬ケ岳城跡、御所ケ谷神籠石、豊前松山城跡)は、1ヶ所に丸1日かけるくらいの気持ちでないと十分な見学ができないことが、今回分かりました。

度重なる反省と、大きな宿題を残した今日の城址巡りでした・・・。

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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