星隈城跡〔三隈三山(日田三丘)① ~ 大分県日田市友田〕

写真一覧はこちら

「松尾城(小石原城」を出た私は、約30分ほど車で南下し日田市に到着。。
日田盆地内にある「月隈・日隈・星隈」の3つの丘を総称して『三隈三山(日田三丘)』と呼んでおり、これら3つの丘の上には城が築かれていました。
今日は、この3城を訪問した後に、宮崎に帰る予定にしています。

この地には、次のような話が伝えられています。

約9万年前のこと、日田盆地は周囲を山に囲まれた大きな湖でした。
そこへ突然の大地震。阿蘇の大噴火です。
阿蘇からの火砕流は、日田盆地(湖)を覆い尽くし、埋没させてしまいます。
その後、河川などによる流水で浸食され地形が変化を続けました。
この地形形成の過程で3つの丘が作られ 、北の丘を月隈、南の丘を日隈、
そして西の丘が星隈となります。

そこでまずは、『星隈城』。
1601年、小川光氏が豊後国日田郡2万石に入領することになります。
その際、月隈山に本城として『月隈城(丸山城)』を築くことになりますが、
月隈城(丸山城)完成までの3年間は、ここ星隈城を仮の居城としていました。
月隈城(丸山城)が完成の後に廃城となっています。

星隈城に到着し、車を駐車場に停めた私は、登城口へと向かいます。

img_3514

ほんとに小さな丘で、ここに城があったとは想像がつかない程です。

入口階段横に案内板。

img_3513

『星隈山遺跡』 (以下、原文)

日田盆地の北を流れる花月川と、南を流れる三隈川(筑後川)との合流点にあり、盆地の西の入口を占めている。北の月隈、南の日隈とあわせて「三隈の山」とよばれ、水蝕残丘である。
東側山腹に数十基の横穴墳群があり、国道を隔てた北の河岸には髙塚式の三郎丸古墳が残っている。埋蔵物も多数出土したと伝えられる。
また慶長六年(一六〇一)小川壱岐守光氏が日田北部の領主となって、月隈山に築城のとき、ここに一時仮城を置いたという。現在山頂には八幡社をまつる。

では、登城を開始します!

img_3516

今現在は「星隈公園」として整備されています、とのことでしたが、あまり整備されていないような・・・。(-_-;)

頂上まで上ると、

img_3518

ここが「本丸跡」でしょうか。

img_4360

何やら石碑が建っています。
石碑の周囲をキョロキョロ見回しながら歩いていたところ、クモの巣が私の頭や顔に絡みついてきました。(-_-;)

「もーーーーっっ!!」と自分にイラつきながら、上ってきた道とは異なる階段を下りたところ、

img_3519

鳥居です。

img_3520

鳥居の脇には石垣跡???のような・・・。 違うか・・・。

15分ほど周囲を散策して、少し遠く離れたところから、

img_3521

遠景の写真をを一枚!

まだ頭に絡んでいるクモの巣を取りながら、車に戻ります。

次は『月隈城(丸山城)』へ!!

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*