桶狭間 古戦場跡 ②〔桶狭間古戦場伝説地 〜 愛知県豊明市栄町〕

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名古屋市緑区「桶狭間古戦場公園」を車で出発し、5分もしないうちに
愛知県豊明市「桶狭間古戦場 伝説地」に到着。ほんとに近い・・・(-_-;)

ほんの1kmほどしか離れていないこの2つの古戦場跡。
双方、『ここが真の桶狭間の合戦場だーー!』と主張して譲らないらしいのです。
もちろん、それぞれにその根拠を持っているのですが、歴史文書においても何通りにも解釈できる内容のようでどうにも決着がつかないとのこと。
ちなみに、こちらは「国指定史跡」。 これ、強味ですね・・・。

車を止めた私は、早速「桶狭間古戦場 伝説地」に入ります。

正直な感想を述べますと、先ほどの古戦場公園よりもこちらの伝説地のほうが重々しい雰囲気を漂わせており、まさに『古戦場跡』らしさが充満。

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そして、案内碑。

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ここ古戦場伝説地の周囲では、無念仏の石仏が数多く点在しているのを見かけます。以前、亡霊が頻繁に出ており「おばけ地蔵」を建ててから亡霊は出なくなったとの言い伝えがあるそうです。

少し歩くと、

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『七石表(一号碑)』

古戦場伝説地内に7つの碑が建っており、この写真の右側の石碑が「一号碑」。
この「一号碑」の場所が、今川義元公の戦死した場所を示しているそうです。
「二号碑」は、今川義元の重臣・松井宗信の戦死した場所。三号碑から七号碑までも、今川義元の側近たちの戦死した場所を示しているとのこと。

なんともリアルに感じてしまいます・・・。
そしてすぐ横には、

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『今川治部大輔義元の墓』 (以下、原文)

駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄三年(一五六〇)五月十九日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。
以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治九年五月に、この墓を建てた。

双方の古戦場跡を訪問し、まずまず満足している私ですが、本当のところを言いますと「満足しようとしている私」なのです。

歴史の上で格段に有名な、そして戦国を語る上では真っ先に出てくるような合戦「桶狭間の戦い」なのに、史料館すら無いんだなーーと思ってしまったのは事実。古戦場の跡地が1ヶ所に統一されていない背景があるので、史料館の設置には困難な問題があることは十分に理解できますが、歴史ファン・信長ファン・義元ファンのためにも何とか歩み寄って新たな展開を見い出せないものですかねーー。(-_-;)

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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