桶狭間 古戦場跡 ①〔桶狭間古戦場公園〜愛知県名古屋市緑区桶狭間〕

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数多くの歴史小説を読み漁ってきた私ですが、次々と異なる作者の本を探してしまうのが『織田信長』の小説。

織田信長小説の時代背景は、足利将軍家の衰退とともに、多くの武将たちが他国への勢力拡大、そして天下取りへと向かう激動の時代が舞台となっています。

ゆえに、織田信長、斎藤道三、さらに木下藤吉郎(豊臣秀吉)、松平元康(徳川家康)などの錚々たる戦国武将たちが一冊の本に登場してくるので実に面白い。
そして、必然的に「信長ファン」になってしまうわけですね。

そんな私が出張で名古屋に行くことになりました。
そうです!  織田信長の国「尾張国」

宮崎空港を出発した私は、1時間ちょっとで中部国際空港に到着。
着いてみると、この日の名古屋はあいにくの雨。
でも、雨でいいのです!!
なぜならば、今から「桶狭間古戦場跡」に向かう予定。
信長が桶狭間で今川義元の本陣を攻めた日は、「雨」だったのですから。(*^^*)

『桶狭間の戦い』とは、言わずと知れた、織田信長が今川義元を討ち取った戦い。2000の織田軍が25000の今川軍を敗走させたこの戦いのいきさつは周知のものですので、ここでは詳しく記しません。

「尾張に織田信長あり!」を全国的に知らしめることとなった桶狭間の戦いの地を訪れることにワクワクしながらようやく到着!

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『桶狭間古戦場公園』 の大きな石碑。

想像していたよりもこじんまりとした公園。

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このように美しい公園なのですが、土曜日というのに観光客は全くいません。
綺麗に整備されているのですが、観光客を呼び込もう!という意図までは感じられません。 とは言っても、私は一人で十分はしゃいでいますが・・・。(*^^*)

「案内板」がいくつも設置されていますのでご紹介します。

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『合戦当時の面影を残すおけはざま山』 (以下、原文)

「おけはざま山」は、今川義元の本陣が置かれ、田楽坪を含むこの一帯は桶狭間の戦い(一五六〇年)の主戦場でした。
「田楽坪」は、信長公記等の史料から、織田軍に追い詰められ討ち取られた今川義元最期の地と言われています。
二枚の写真は、おけはざま山と田楽坪付近を撮影したもので、手前には田楽坪を象徴する広い田面が写っています。今は住宅地となっていますが、昭和四十年代まであまり開発されず、合戦当時の面影が残っています。
錦絵「桶狭間之戦」は、奮闘する今川義元の最期を描いたものです。

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『桶狭間の戦い 案内』 (以下、原文)

この附近一帯が歴史に名高い「桶狭間の戦い」が行われたところです。この地は田楽坪と呼ばれ、今川義元公 最期の地でもあります。
桶狭間の戦いは、永禄三年五月十九日(一五六〇)尾張の領主=織田信長が、駿河・遠江・三河の領主=今川義元の、十倍に余る大軍を打ち破り、近世という時代の幕を開けた歴史上特筆すべき戦いです。
今川義元は、二万五千余の兵を率いて五月十八日に沓掛城へ入り、翌十九日八時頃大高城へ向け出発。前日 瀬名氏俊が設営した「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方撃ち落とした鷲津砦・丸根砦の戦果を聞きながら休息をしていましたが、昼頃 天気が急変し雷雨となり、高地に着陣していた今川軍本隊は落雷により大混乱状態になりました。
一方、織田信長は午前四時頃清洲城で鷲津砦・丸根砦が今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、「敦盛」を舞い直ちに出陣、八時頃熱田神宮に到着、戦勝を祈願。十時頃には善照寺砦に着き、本陣ここにありと見せかけておいて、雷雨のなかを今川義元本陣近くの釜ケ谷に進み、雨が止むや間髪をいれず今川軍に突撃、遂に今川義元を討ち取りました。(「信長公記」による)
この戦いでの戦死者を、織田信長は村人に丁重に葬るように命じて引き上げました。村人は七つの塚を建て弔い、後年これを一つにして「七ツ塚」を称して残してきました。
この他にも桶狭間には、瀬名氏俊陣地跡・戦評の松・長福寺・神明社・高根山・幕山・巻山・生山・武路等の戦いに関連する史跡や地名があります。

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『今川義元公 馬繋ぎの「ねずの木」』 (以下、原文)

ここにある枯れたねずの木は、着陣した今川義元が田楽坪の泉で水を飲むために馬をつないだ木と言い伝えられ、田の中にねず塚として残されてきました。この木に触れると熱病にかかるとの言い伝えもあります。

『駿公墓碣(すんこうぼけつ)』 (以下、原文)

この墓石は田楽坪の「ねず塚」に埋められていました。昭和二十八年(一九五三)に偶然発見され知られるところとなりました。造られた年月は不明です。当時の村人が敗軍の将を弔うことをはばかり墓石を埋めてひっそり供養したものと思われます。

『田楽坪(でんがくつぼ)』 (以下、原文)

「日本中古治乱記 慶長七年(一六〇二)」に桶狭間の戦いの合戦地は「・・・桶狭間のうち田楽坪・・・」とあります。
「庄屋日記 享保八年(一七二三)」には “桶狭間の田楽の坪” について、「・・・村人が毎年この坪で鍬を立て田楽の舞を行っていたが、今川義元が討ち死にしてからは行われなくなり「お鍬社」も郷前へ移された・・・」と記されています。

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そして、上の写真。
今川義元公のお墓と『今川義元 戦死之地』の石碑。

しかしながら、実はここから約1kmほど離れたところにも、もう1ヶ所「義元公のお墓」と「桶狭間古戦場跡」があるのです。それはまた、後ほど記すことにします。

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『義元公 首洗いの泉』 (以下、原文)

織田軍に攻められ討ち死にした今川義元公の首級をこの泉で洗い清めたと言われています。昭和六十一年(一九八六)の区画整理

まで清水が豊富に湧き出ていました。
ここは近崎道と三河道との合流点で鳴海方面に通じる要所でした。湧き出る水の勢いで水汲み用の桶がくるくる廻っている様子に興味を誘われた旅人が、桶が廻る間の一服とて「桶廻間」と呼ぶようになったとの言い伝えもあります。江戸時代の文書の殆どは「桶廻間」でしたが、明治十年(一八七七)の郡町村制の制定以降、現在の「桶狭間」となりました。

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そしてこれが、その泉。 「首洗いの泉」と呼ばれていますが、もともと義元公はこの泉の水を汲んで、暑さをしのいでいたそうです。

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そして、信長公、義元公の銅像。 これは立派でした!!

さて、前述しましたように、もう1ヶ所「桶狭間古戦場跡」が近くにあります。

史実というものは諸説あって当然のものですのでよくある話。

桶狭間の戦いは、「織田信長の奇襲」だったというのが定説でしたが、

今では「奇襲ではなかった・・・」との説も出てきています。

これだから歴史は面白い!!(*^^*)

今からもう1ヶ所の古戦場跡『桶狭間古戦場 伝説地』に向かいます。

 

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