那古野城跡〔名古屋城・二之丸庭園~愛知県名古屋市中区二の丸〕

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「清州城」から高速に乗って約20分、『那古野城跡』のある「名古屋城」に到着。
今回の名古屋訪問で最も楽しみにしていたのが、名古屋城でも清州城でもなく、
この『那古野城跡』

「那古野城」には、歴史上有名な逸話が残っています。

もともと那古野は「今川氏」の所領。「今川氏親」の代から西上のための前線拠点となっている地でした。「今川義元」は那古野台地の北端に『那古野城』を築き、弟の「今川氏豊」を入城させ西を伺います。
相対して、那古野の西に位置する尾張『勝幡城』の「織田信秀」は、今川氏の動きを絶えず注視しています。(織田信秀とは、言わずと知れた信長公の父ですね。)

那古野城を守る「今川氏豊」は文学・芸能に通じており、猿楽・連歌を愛し、公家のような生活を送っています。そのことを知った計略好きの信秀は、氏豊への従順を装い、詠句の交換を重ねることで親密な関係を築いていきます。
足繁く那古野城で催される連歌会に通う信秀。氏豊にも信頼され、何日も那古野城に滞留するようになります。そして、信秀は予てよりの作戦を開始。

那古野城に滞留中、信秀は「仮病」で倒れます。
家臣への遺言を希望する信秀。
氏豊は同情し、信秀の家臣を那古野城に受け入れます。
見舞いのための多くの家臣も受け入れます。
ある夜、城中の油断を狙い、武装した家臣が城内に火を放ちます。
そして一気に、城内と城外から攻め立て、那古野城を奪い取ったのです。

信秀の謀略によって氏豊は城を追われ、その後に信秀は勝幡城から那古野城に移りここを本城します。そして、幼い「信長」に那古野城を譲り、信長が城主となるわけです。信長は、1555年に清州城に移るまでの間、那古野城を居城としており、
清州に移った後は信長の叔父「織田信光」が居城としますが、その後に廃城。

そして時は経過し、関ケ原合戦の後、徳川幕府は那古野の地を要所と判断し、
ここに新城を築きます。那古野城の跡地に『名古屋城』が築かれたのです。

では早速、「那古野城跡」を見学するために「名古屋城」に入ります。

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やはり、天下の名城だけあって、閉門間近の時間だというのに観光客が多い!!

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『二之丸大手二之門』 (以下、原文)

この門は二之丸西側にある桝形の外門となるもので、内門である大手一之門(現存せず)と共に古くは西鉄門といわれ、二之丸正門を形成していた。俗に桝形御門ともいい、一間一戸、屋根切妻造本瓦葺で、高麗門の形式をとる。
なお、二之丸東側には東鉄門と称されていた二之丸東二之門があったが、現在は本丸東二之門跡に移築されている。
共に国の重要文化財に指定されている。

そして歩くこと5分、「東門」で500円を払い入城!

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『特別史跡 名古屋城』 の案内板。

案内板の地図中に「那古野城跡」は確認できません。とりあえず、とぼとぼ歩いていると、偶然右手に「案内板」と「那古野城跡」を発見。

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『名勝 名古屋城二之丸庭園』 (以下、原文)

二之丸庭園は、元和6年二之丸御殿の新築と共に作庭されたものといわれています。時代と共に改造され特に文政年間に大きく改造されました。この庭園の特徴は、面積が小さい割に作庭当時は丘や森のたたずまいが峻険で谷は深くして巨岩を畳み、山上には老樹を茂らせ、後面には、桧等を密植させ、退路を隠すなどの要害的構成をなして、一朝有事の際は、城主が一時退避の場所として設計された城郭庭園であることです。その後の改造でやや性質が薄れてきましたが基本の性質は残されています。

現在の庭園は、昔の庭園を調査しその基本の性質を踏まえて拡充復元したものです。面積は、5,137㎡(1,567坪)で枯山水廻遊式庭園で庭園内の建物を挟み、南庭と北庭とに別れ、北庭が比較的、創設当時の姿をよく残しています。北庭は、五つの築山で囲まれ、三つの中島と、数多くの出島のある地を中心として作られ、石橋、山道、岸づたいなど変化のある廻道路がめぐらされています。池には、深い渓谷の趣きを表現し、池底は庄内玉石敷で、その下は、南蛮たたきになっています。
石組は、佐久島石、篠島石、幡豆石、桃取石等数多くの名石が使用され、樹木は、松を始めとして、観賞用、薬用、非常用のものなどが植えられています。

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『那古野城跡』 (以下、原文)

大永年間(一五二一〜二八)に、今川氏親が名古屋台地西北端(名古屋城二の丸あたり)に築いた城で、一名「柳之丸」ともいわれ、一族の今川氏豊を城主とした。
織田信秀は、天文七年(一五三八)この城を奪い、ここに居するが、同十一年(一五四二)頃に古渡城を築城して、この城を去り、以後、嫡子信長が居城したとされている。
弘治元年(一五五五)織田信長が清須に移った後は、一族の織田信光がしばらくの間居城していたが、やがて廃城となった。

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おそらく『那古野城址碑』。よく読めません・・・。(-_-;)

そして、その奥は、

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何がどうなっているのか全く分かりませんが、この場所が

「あの有名な、信秀が謀略の限りを尽くして奪い取った城」

であり、

「幼い織田信長が初めての城主となった城」

だと思うと感慨深く、じ~~~んとくるものです。

ふと、左に目を移すと、二の丸跡の奥に「名古屋城」が見えます。

『今日のメインは「那古野城跡」だーーー! それが通というもんだーー』

などとほざいてみても、やはり名古屋城を目の当たりにすると、その素晴らしさをすぐに感じてしまうもので、通ぶってはいるもののミーハーな私は急ぎ足で名古屋城に向かうのでした・・・。

 

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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