稲津掃部助重政・雪江の墓〔清武城悲話~宮崎県宮崎市清武町〕

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先日「清武城址」を訪れた際、併せてその日に行くことができず心残りになっていた場所『清武城主・稲津掃部助重政と妻・雪江の墓』が本日の目的地。

「清武城悲話」として伝えられている重政と雪江の話をおさらいします。

清武城主・稲津掃部助重政は、若くしてその才能を認められ、朝鮮出兵時には伊東祐兵に重用され参陣するほどの人物。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦において、全国が東軍(徳川方)と西軍(石田方)に分かれた際、日向を含む九州南部の中で伊東氏だけが東軍方に加勢。

東軍方の「黒田如水」は伊東氏に西軍方を攻めるように命じ、稲津掃部助重政は、延岡藩「高橋氏」「宮崎城」を攻め落とし、城主・権藤種盛を討ち取ります。
しかしこの時、西軍方と思われていた高橋氏は、すでに東軍方に寝返っていたため、結果として同士討ちとなり大問題に発展。

黒田如水は、自分自身に疑いが向けられたため、その責任を伊東氏に押しつけ、
また、これまで稲津掃部助重政の重用を好ましく思わない藩の重臣・松浦久兵衛らが、この責任を稲津掃部助重政ひとりに負わせようとします。
当然ながら、納得できない稲津掃部助重政は清武城に立てこもります。
この時、稲津掃部助重政の妻・「雪江」も城内で運命を共にします。

1602年、伊東氏の軍勢は城内に攻め込みます。
妻・雪江は、落城する清武城内で自害し、家臣・阿万三平が介錯。
稲津掃部助重政は、妻の自害の後に、最後まで付き従った家臣らとともに切腹。

指示通りに動き、望まれる結果を出しながらも、「指示する側の不手際」によって責任を負わされ、またこれに加えて周囲からの「嫉妬の思い」が重なり無念のうちに命を落とした稲津掃部助重政と雪江。
重政29年、雪江15年という短い生涯でした。

その後、生き残った稲津掃部助の家臣たちが二人の墓を作る際に、少しでも慰めになればとの思いから、日向灘に向けて墓を建てたところ、それ以来、日向灘を行き交う船の難破が続いたそうです。
「無念のうちに亡くなった稲津夫妻の祟りであろう」と、稲津夫妻の墓の向きを
逆方向に変えた後に改めて供養したところ難破が収まった、と伝えられています。

さて、この日は雲ひとつない晴天。
お墓のある丘のふもとまで到着。
この分かれ道を左に入ります。

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このように、車1台しか通れないような上り坂を進んでいきます。

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すると、わずかに車1台分、止めることができるようなスペースがあったので、

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とりあえずここに停車。歩いて上ってみることにします。

すると、一つ目のカーブを曲がってすぐのところに、

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いきなり発見! 『稲津掃部助の墓』

偶然!!

ではまず、この階段を駆け上ります。

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すると、石碑が見えてきましたので

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近づいてみると、

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『修理記念』

修理?? なんの??

「???」のまま、次の階段へ。

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この階段、こんな感じの

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「コケ」だらけ!!

このように「城跡・史跡」は足元の悪い場所が多いので、今までも油断して歩いていてツルツルすべってしまい危ない目に遭うこと数え切れません。

しかしながら、今日は大丈夫!! (*^^*)
ようやく念願の登山靴を購入し今日は履いてきたのです!!
ジャジャーーーーーン!!

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『ティンバーランドーーーー!!』

っていう靴らしい・・・。

そして、滑ることなく階段を上り切ると、

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お墓に到着。 お墓の周りは荒れ放題・・・。(-_-;)

奥に「案内板」も見えます。

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そして、これが重政と雪江、そして運命を共にした家臣たちが眠るお墓。

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近づいてみると、

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「慶長七年・・・」の文字が見えます。

さらに近づくと、

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「稲津掃部助」と「雪江」の文字が確認できますね。

お二人の無念を思いつつ、手を合わせご冥福を祈り、この場をあとにしました。

戦国期の日向における、この「清武城の悲しい物語」を知る人は、今の宮崎でも

多くはないようです。 清武城があったことすらも知らない人もいます。

語り継がねば!!

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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