飫肥城〔伊東氏48城⑫・日本100名城 ⑤~宮崎県日南市飫肥大手〕

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「日本100名城」のひとつであり、「伊東氏48城」にも数えられる『飫肥城』
宮崎県内の城郭としては、最も規模が大きく見所満載の『飫肥城』
そして、宮崎県内の城巡りで、私が最も楽しみにしていたのが『飫肥城』

「飫肥城」を訪れたのは、実は昨年夏のこと。
なのに、今まで「飫肥城」のブログを書こうとしていない。
なぜならば、ここ飫肥城に苦~~~い記憶があるのです。

 

皆さんはご存知でしょうか?
飫肥城の『目を矢で射抜かれた落武者』の話を・・・。

飫肥城では昼夜を問わず、この武士が現れ、

「目が見えぬ~~~。 目が見えぬ~~~。
それがしにメガネを~~~。それがしにメガネを~~~。」  と・・・。

私が訪れた夏の日の午後も、私は確かに、

「それがしにメガネを~~~。それがしにメガネを~~~。
そこもとのメガネを~~~。そこもとのメガネを~~~。」

との声が、聞こえたような聞こえなかったような・・・。

ふと胸ポケットに手を当てると、買ったばかりのメガネが無い。
ついさっきまでかけていたのに、ちょっと胸ポケットに入れていただけなのに、
買ったばかりのメガネが無い・・・。

もしや・・・、あの落武者の噂は・・・、
本当だったのか・・・。

これが、私の苦い記憶。
買ったばかりのメガネを落とした、、、あ、いやいや、メガネを落武者に奪われた出来事。

メガネをかけて飫肥城を訪れるときには気を付けて下さい。
あなたの後ろの落武者が、あなたのメガネを狙っているかも・・・。
もしメガネをかけた落武者がいたら、それは私のメガネ・・・。

 

さて、ここからは少しだけ「飫肥城」の本当の話。

飫肥城は、長年に渡り『伊東氏』『島津氏』との間での争いが絶えなかった城。
なんとその戦いは「103年」もの間、続いていたそうで、日本の歴史上でも稀なケース、とのこと。

もともと「伊東氏」は『藤原氏南家』の子孫であり、「島津氏」は『藤原氏北家』の子孫。
いがみ合うわけです・・・。

 

では、登城開始。

「大手門」へと続く通り。

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この通りの左右には『飫肥城豫章館』『小村寿太郎記念館』。

そして、ここが、

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飫肥城への入口『大手門』 と、「助っ人Bo君」。 

大手門手前の橋の下は、

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『空堀』

門をくぐり城内に入ると、すぐ右手に、

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『大手門』 の案内板。 (以下、原文)

飫肥城大手門は明治時代初めに取り壊されたが、昭和五十三年(一九七八)に飫肥城復元事業の第二期工事として歴史資料館とともに復元建設された。復元に際しては、当時の城郭研究の第一人者であった故藤岡通夫博士に設計、監修を依頼し国内に現存する大手門を参考に在来工法で行った。復元された大手門は木造渡櫓二階建てで、高さ十二. 三メートルを計る。建築材は飫肥営林署の三ツ岩学術参考保護林から樹齢百年の飫肥杉四本の提供を受けた。

なお、復元工事中に、礎石に刻まれた正徳三年(一七一三)銘の碑文が発見され、大手門の内側に保存されている。飫肥城は、重要伝統的建造物群保存地区内であるとともに、日南市指定文化財である。

大手門前を過ぎ、城内へ進みます。

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この石段を駆け上がり、右に曲がると、

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『鉄砲狭間』  

ふざけている「助っ人Bo君」。
こんなおふざけをするから、罰が当たってメガネが・・・。(-_-;)

奥に進むと、

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迫力ある石垣。

飫肥城は、江戸の頃、大地震に三回見舞われたそうで、そのたびに石垣は崩壊したため何度何度も修復作業を行っています。 よって、江戸時代における石垣の工法を知る上では貴重な城といわれているようです。

さらに奥に進むと見えてくるのが、

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『松尾の丸』 の案内板。 (以下、原文)

飫肥城復元事業により、昭和五十四年(一九七九)に、江戸時代初期の書院造りの御殿として、在来工法を使用して建設された。建物は延床面積約八百平方メートルで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など二十室以上の部屋がある。涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。建物の設計、監修は豊後岡城や京都二条城を参考に故藤岡通夫博士が行った。本事業では多くの日南市民や本市出身者の寄付とともに、財団法人日本船舶振興会(現日本財団)から多額の助成を受けた。

この写真の中央奥の階段を上ると、

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『松尾の丸』

紫陽花が美しい。

さて、さらに歩を進めると、

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『市指定文化財 史跡 飫肥城旧本丸跡』 (以下、原文)

飫肥城は東西約七百五十メートル、南北約五百メートルの城域に大小十三の曲輪と犬馬場などからなる広大な城である。各曲輪はシラス台地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的な形態である。戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正十五年(一五八七)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東氏の居城となった。

城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。このうち、元禄六年(一六九三)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは旧本丸が藩主の御殿であった。旧本丸は寛文二年(一六六二)、延宝八年(一六八〇)、貞享元年(一六八四)の三度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。

それでは、いざ、「旧本丸跡」へ!!

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石段を駆け上がると、広大な旧本丸跡の敷地内には

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おびただしい数の杉の木が立ち並んでいます。

圧巻!!

見事!!

ただ、、、おそらくここで、、、メガネを・・・。(-_-;)

そして、旧本丸跡からは、

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本丸跡の飫肥小学校グラウンドが見えます。

 

楽しく城内をくまなく見学した後、駐車場に戻った時点でメガネが無いことに気付いた私。

助っ人Bo君とともに、もう一度この広い城内を、

見学した順路の通りにメガネを探すことになります。

飫肥城下のメガネ店は大繁盛だとか・・・。

 

 

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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