早川城跡〔阿蘇氏家臣・早川氏居城~熊本県上益城郡甲佐町早川〕

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「御船城跡」を出た私たちは、この日の2城目「早川城跡」へ!!
はやかわ、ではなく『そうかわ・そうがわ(早川)』と読みます。

阿蘇氏の家臣・渡辺氏」が「甲佐の早川」に築城。 「早川氏」とも称していたそうです。

私自身、全く知らない城なので調べてみたところ、やはり歴史は面白い。
この城に関してよく出てくる話は、1580年の「隈庄合戦」

島津氏に内通し寝返った「甲斐守昌」に対し、阿蘇氏の家臣で御船城主「甲斐宗運」が攻める際に、渡辺氏(早川氏)も参陣。

実はこの「甲斐守昌」は、「甲斐宗運」の『娘婿』。

以下のような話が語り継がれています。《「戦国ちょっといい話・悪い話」よりの引用です。》

肥後の甲斐宗運は、娘を遠縁の隈庄城主・甲斐守昌に嫁がせていた。天正頃のある正月、宗運のもとに守昌夫妻が訪問、年賀のあいさつをしていた。その時、猫が宗運の背後にあった刀かけを倒してしまった。いたずらな猫ちゃんである。その時鞘から抜け落ちた短刀は、偶然そこにあった茶臼に9cmも突き刺さり、「茶臼剣」と呼ばれ名を馳せたという。

さて、茶臼に刺さった切れ味を目の当たりにした守昌は、ぜひこの茶臼剣を賜りたいと夫婦ともども懇願したが、それは宗運が主君である阿蘇大宮司から拝領した短刀であった。宗運は自分の目の黒いうちは手放すわけにはいかない、しかし自分が死んだら形見として必ず守昌に渡そう、と嫡子を証人に約束した。守昌は引き下がるしかなかった。

しかし、奥さんがここで気を利かせてしまった。宗運の娘である立場を悪用し、宗運の寝室から茶臼剣を盗み出してしまったのである。守昌は宗運の怒りを恐れて敵対、婿と舅の合戦におよび、最後には守昌は城を捨てて落ち延びろこととなったのであった。

早川城とは直接関係のない話ですが、面白い逸話なのでご紹介しました。

 

さて、御船城跡から車でほんの10分少々南下すると、まず目に入ってくるのが、

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『早川城』 の案内柱。

さらに山側に向けて奥に進んでいくと、「西福寺」というお寺さんに到着。

このお寺さんの敷地内に「早川城跡」への登城口があることは調べていました。

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突然で失礼なことは重々承知していますが、ピンポーーン! と呼び鈴を鳴らして、

小一時間、車を駐車させていただくことを願い出ると、ほんとに快く了承していただきました。

感謝です。

では、この美しい梅の木の立つ登城口から、

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いざ、登城開始。 まずは、Bo君が偵察。

入口から登るとすぐに、

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『城井戸』 の案内板。

ここからさらに登ろうと進むと、

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登城路はあるものの、奥の方は木が倒れ込んでいて進めない。

するとBo君、登城路横の竹藪へと突入開始! 後に続く私。

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足元に気を付けながら、それでも足を滑らせながら進んでいくと、

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ようやく竹藪の上方に、日が射してくるのが見えてきます。

さらにBo君、道なき道を突き進みます。 後れを取らないように私も必死。

そして、竹藪を抜けると、

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土塁のような跡。

そしてその奥に、

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くずれている階段。 「本丸跡」への入口でしょうか・・・。

この階段を上ると、

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「本丸跡」  おそらく・・・。(-_-;)

いや、違うのかな・・・?(-_-;)

くまなく散策した後に、本丸跡を下り、

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本丸跡の裏側に回ります。

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この写真以上に、木々からの木漏れ日が美しい光景。

全く案内板が設置されていないので、本当にこの場が「本丸跡」かも不明なまま下山。

この日の登城の中で、最も記憶に残るワクワクドキドキの「早川城跡」でした。

では、3城目を目指します!!

 

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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