紙屋城跡〔伊東氏48城⑤ 空堀跡 ~ 宮崎県小林市野尻町紙屋〕

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「戸崎城跡」を出た私は、宮崎市内への帰り道にある『紙屋城跡』を目指します。

この『紙屋城』も、伊東氏48城のひとつ。
野尻城主「福永丹波守」が島津氏に寝返ることで野尻城は落城しますが、この時、福永丹波守の縁戚である紙屋城主「米良主税助」も呼応して寝返ります。
これまた、戸崎城の落城と同様に、野尻城落城の翌日のこと。
この時に、併せて『内山城(高岡城、現在の天ケ城)』でも城主「野村刑部少輔」が島津氏に寝返っており、たったの2日間で4つの城が島津方に帰しています。

これら4城「野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)」の落城によって、伊東氏は急激に没落を進ませ、伊東義祐が大友宗麟に応援を乞うための豊後落ちは、
野尻城の落城からわずか2日後だそうです。
家臣を信じ切れなかった伊東義祐の、まさかの顛末です。

ということで、迷いに迷ってようやく『紙屋城 第二の空堀跡』に到着。

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要約しますと、

紙屋城は、代表的な中世の「連郭式山城」で、数多くの『空堀』が構築されていたそうです。城の主郭は、この空堀跡から南に1000m奥の台地にあり、元和元年に、一国一城令によって廃城となっています。

この案内板の左右に「空堀跡」が確認できます。

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写真で見るとちょっとわかりづらいですね・・・。

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こちらの写真は、はっきりと空堀が確認できます。

さて、それでは今から家に帰ります。
今日一日で、今まで気にも留めていなかった宮崎の小城の歴史を詳しく知ることができました。有名な城でなくとも、どのような城でもそのお城なりの歴史があるものです。そして、その土地の歴史に詳しい方々との出会いも楽しみのひとつです。

おそらくは誰もが、その土地で暮らしながら、その土地のことは知らないことばかりなのでしょう。

宮崎の歴史探訪はまだまだ続きます・・・。

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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