長嶺城跡 ①〔長倉能登守の乱 ~ 宮崎県宮崎市長嶺〕

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この日、所用にて宮崎市内を車で走り回っている途中、たまたま偶然に見つけた案内柱。

『長嶺城跡』

の文字を見つけ、車を急停車。

「長嶺城?? 聞いたことないな~~~」と思いつつも、周囲を散策してみることに。

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まずは、その場でスマホを取り出し『長嶺城 宮崎』で検索してみたところ、

まーーー情報が少ないこと少ないこと。(-_-;)

わずかにヒットした情報として、「大淀川流域 地名いわれ事典」からの引用によると、

天文10年(1541)、長嶺城主・長倉能登守(ながみねじょうしゅ・ながくらのとのかみ)は、兄の穆佐城主・長倉上総介(むかさじょう・しゅながくらかずさのすけ)とともに、伊東義祐(いとうよしすけ)に謀叛(むほん)を起こしたが討ち死(うちじ)にしたという。その戦があった所を合戦原というようになったと伝える。

ならば、『長倉能登守』で検索すると、出てきました! さすが、ウィキペディア!
以下、ウィキペディアより引用。

長倉 祐省(ながくら すけよし)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。長倉氏は伊東氏初代・伊東祐時の子・長倉祐氏を祖とする伊東氏の庶流。伊東氏祐が日向国に下向する際、付き従い被官化した家系。伊東尹祐・祐充父子の家老。天文2年(1533年)に伊東祐武が反乱を起こした「伊東武州の乱」では伊東祐清(義祐)・祐吉方について戦う。乱の収束後、祐吉を擁立し当主に押し上げたが、祐吉は数年で病死してしまい、出家していた義祐が還俗し家督を継承することとなった。こうした経緯から新当主である義祐との関係は悪く、天文10年(1541年)に穆佐、長嶺、石塚、田野の四城を長倉方と称して遂に反乱を起こし(長倉能登守の乱)、飫肥城の島津豊州家からの援軍を得て宮崎城の義祐と一戦に及んだものの、間もなく撃退され戦死した。

なるほどーー。

伊東氏に謀反を起こした武将の居城だったのですねーー。

興味が湧いてきたので、ウロウロと調べ歩いてみると、

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『登城口』のような階段を発見。

登ってみようと近づいてみると、

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草木がボーボーで上るのも大変そう。

入口でこんな状態だから、階段の上はどうなっていることだろう、と不安がいっぱい。(-_-;)

以前より家内に言われていること。

『誰も行かないような山奥の城跡にはなるべく一人では行かんでね。

 何かあったときに発見してもらえんよ!!

 行くときには、友人Bo君と一緒に行ってもらってね!!』

と・・・。(-_-;)

よって、この日は断念。

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遠景だけを写真に撮ってこの場を去りました。

即、リベンジ予定!!

 

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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