堅志田城跡〔中世肥後国の大規模な城跡~熊本県下益城郡美里町〕

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この日の4城目『堅志田城』は、標高約200mに位置する山城。
山頂までは車で行けるものの、対向車との離合は困難な細い山道。

前から車が来ないことを祈りつつ山道を進む。

ただ、このような城跡へと向かう山道で、対向車が来ることはほぼ無いことは分かっている。
なぜならば、天守の無い城跡に行く物好きはそうそういない・・・。(-_-;)

さて、「堅志田城」の話。

正直、この城のこともよく私は知らない。
九州のコアな城跡ファンの中では、とても評価の高い城跡なのは知っている。

調べてみると、「なるほどーーー」と勉強になる記述があるので紹介します。
「文化遺産オンライン」より引用させていただきました。》

16世紀の前半、阿蘇大宮司職を巡って生じた阿蘇氏の内紛のなか、阿蘇惟前が大永3年(1523)に堅志田城に拠って、阿蘇惟豊と対峙した。また、天正10年(1582)より薩摩の島津氏が肥後国に進攻すると、阿蘇領の最前線として、阿蘇氏・島津氏の攻防の舞台となり、天正13年閏8月、島津勢の一斉攻撃を受けて落城した様子は『上井覚兼日記』に詳しい。落城後は島津氏の番城となり、その後、廃城となった。発掘調査等の結果、西方から東北方の栫集落へ向かって円弧状に延びる延長約400mの主軸尾根と、主軸尾根の西部から南方の熊取集落へむかって延びる延長300mの派生尾根上に、11箇所の郭、15箇所の堀切や畝堀等を有する大規模な城跡であることが判明した。このように、堅志田城跡は中世肥後国を代表する大規模な城跡の一つであり、阿蘇氏の内部抗争、島津氏との攻防が繰り広げられた舞台として知られ、中世肥後の政治状況を知る上で重要である。

分かりやすい記事です。

では、車を止めて、いよいよ登城開始。
駐車スペースのすぐそばに案内板。

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『連続堀切群』  (以下、原文)

この郭(Ⅰ-①-3郭)から西へ約60m先の郭(Ⅶ郭)の間には、5つの堀切(堀切6・7・8・9・10)があります。地形はⅠ-①-3郭~Ⅶ郭にかけて徐々に高くなり、7mの差があります。Ⅶ郭は城の西側を見渡せる位置にあり、見張り場所としての役割があったと考えられます。この尾根の南側の一部は道路のために削られていますが、北側と西側には自然地形が多く残り、谷川が流れています。谷川から尾根までの高さは50m~60m程です。堀切6は深さ4m、幅10m、堀切7は深さ最大3.8m、幅5.4m。堀切8は深さ1.5m、幅5mで、完全に掘り切られておらす、北側に仕切ったように壁が残ります。堀切9は深さ約2m、幅6.4mで、堀切8同様、完全に掘り切られておらず、南側に仕切ったように壁が残ります。堀切8と9は、障子の「桟」の様な掘り痕を残す「障子堀」の特殊な形で、敵にⅥ郭周辺の尾根を横切らせないつくりとなっています。堀切10は、自然の谷に手を加えたもので、南西尾根からの敵の侵入を防ぐために造られました。Ⅶ郭からの深さは8.4m、幅は10mを超える大きな堀切となっています。これらの遺構は、城中心部(Ⅰ郭)の南西方面からの敵に備えるために造られました。

そしてこれが、

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その連続した堀切。

真後ろの振り返ると、

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「Ⅰ郭」が見えます。 Bo君、先に進み偵察開始。

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この階段を上がると、すぐに案内板。 Bo君、仁王立ち。

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『堅志田城跡 Ⅰ郭』 (以下、原文)

Ⅰ郭は、南北に延びる尾根の最高所、標高190mにあり、城下の栫集落と比べると約90mの高低差があります。尾根の山頂を大きく削り、広い平場が確保され、北東のⅡ郭とは堀切によって分断されています。発掘調査によって、少なくとも2棟(F建物跡・G建物跡)の掘立柱建物と、柱穴列・大土壙が発見されました。F建物跡が桁行10.8m、梁行5.4m、G建物跡は正方形で、桁行・梁行ともに10.8mの大きさです。建物の特徴は、柱穴の間隔が2棟とも5.4mの長さになることです。そのため、建物の屋根は、藁葺き・茅葺き・板葺きなど、軽いものが使われていたと考えられます。柱穴列は、全長9.0m、柱間が1.8mの等間隔になります。さらに、西側には、3基の柱穴が見つかりました。大土壙は、ひょうたん形で、長さ3.5m、幅1.0m、深さは1.3m~1.5mもあります。貯蔵穴とも考えられます。出土遺物は、中国産の青磁・白磁・染付・色絵・陶器などがありました。Ⅱ郭に比べると、土師器・火舎・擂鉢・土錘・備前壺の出土が目立ち、小刀・硯石・砥石も出土しました。郭の位置や、発見した建物跡の大きさ、遺物の種類・数などから、堅志田城の最も重要な場所です。籠城戦では、この郭に城主が立て籠もったものと思われます。

詳しい説明です。 そしてこれが、

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「Ⅰ郭」の全容。 城跡全体を見渡すBo君。

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このⅠ郭の奥の階段を上がったところが、

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『堅志田城跡 土檀』 (以下、原文)

この尾根の最高所、標高192mの地点です。ここからは、城下の栫集落はもとより、緑川右岸の平野まで眺める事が出来ます。北側は急斜面で、約90m下には小川も流れており、敵勢は容易に攻め登って来る事が出来ません。大きな土塁の様に見えますが、頂上が平らに削られており、「土檀」とも呼べます。Ⅰ郭との高低差は約2mで、長さ19.8m、幅8.6~4.0mの楕円形状です。県内の城跡でも、最大級の土檀として、注目されます。(*土檀の類似遺構は、天草郡苓北町の志岐城跡に残っています。本丸の東縁にあり、今日、城主の志岐麟泉公が、石祠に祀られています。) 発掘調査では、小型の掘立柱建物(H建物跡)を発見しました。規模は梁行1.8m × 桁行6.6mです。戦いの神などを祀った社ではないかと思われます。戦の時には、城に立て籠もった城主や家臣たちが、この場所で、神に祈願していたことが想像されます。

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この最も高い場所に位置する「土檀」のすぐ真下には、

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「Ⅱ郭」 を見下ろせます。

実はこのⅡ郭、地震の影響なのか、または雨の影響なのか、この日は見学不可。残念。

さて、Ⅰ郭にはもう一つの案内板。

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『堅志田城跡 帯郭』 (以下、原文)

城の「本丸」にあたるⅠ郭を、東から南にかけて取り囲むように造られた郭です。南の谷から攻めてくる敵兵を防ぐために造られました。また、Ⅰ郭から他の郭へ行くためには、ここを通らなければなりません。東にある柵の跡(SA-1)は、長さ??m、柱穴の間隔は1.2~0.5mです。南東の谷からの攻撃を防ぐための柵です。南東にある階段状遺構(SD-2)は、全長8.1mで、5つの石が階段のように置かれていました。南の郭(Ⅰ-②郭)への通路と思われます。この階段状遺構(SD-2)の近くには、深さが1.3~2.1mもある3基の大きな土壙(SK-2・3・4)も発見されました。落とし穴や貯槽穴ではなかったかと考えられます。西側の溝状遺構(SD-1)は、Ⅰ郭の斜面へ続いており、溝の底は硬くしまっていて、南の郭(Ⅰ-①-4郭)への通路と思われます。掘立柱建物跡(SB-1)は、梁行3m × 桁行4mの大きさです。Ⅰ郭やⅡ郭で見つかった建物跡と比べて小さく、見張りをするための兵士の小屋であったと考えられます。戦国時代、阿蘇氏の堅志田城は、相良氏や、薩摩(鹿児島県)の島津氏等の軍勢から狙われ、南の守りを強くする必要がありました。調査により、南の尾根にも、17本の畝掘(連続縦堀)など、多くの遺構が見つかりました。

そして、Ⅰ郭を下りて、城跡の奥へと向かう途中に、

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『帯郭』 と通ります。

帯郭を奥へと進むと、見えてくるのが、

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『Ⅳ郭』 

このⅣ郭の先まで進みたいのですが、

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この日は、Ⅳ郭への見学も不可能な状態。 残念・・・。

Bo君、Ⅳ郭先端への偵察を拒否。 「これは危ない・・・。」と・・・。

なので、ギリギリまで近づいて写真を撮ることに。

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そして、ここⅣ郭を通り過ぎると、先ほどⅠ郭の土檀から見下ろしていた、

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Ⅱ郭への階段。

Bo君、Ⅱ郭への突入も拒否。 「勘弁してください・・・。」と・・・。

よって、ここも断念。

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なので、ギリギリまで近づいて写真を一枚。

足元が不安定な中、滑落の危険を感じながら頑張って撮った一枚。

そろそろかなりの体力を奪われてきた私たち。

今回の「堅志田城跡」は、全ての郭を見学できなかったので、

再登城を誓いつつ、次の目的地へと急ぐことにします。

 

 

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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