私が小学生の頃、北九州市小倉の小学校は遠足で「青の洞門」に一度は訪れたものです。ふと懐かしく思い、先日小倉に戻った際に、家内と二人で「青の洞門」に
再訪してみました。
「青の洞門」とは、禅海和尚が手彫りで作ったトンネルのこと。
地元では有名な『青の洞門伝説』が語り継がれています。
青の洞門の伝説 (偕成社発行の大分県の民話を要約しますと、)
昔は、「樋田」という地域から「青」という地域へ行くためには、大分県・山国川の上にそそり立つ岩壁に沿って作られた細い道を通らなければならず、岩壁に張り付けられている鎖を命綱にして渡っていたそうです。
(この場所を「鎖渡し」と呼ぶびます。)
この鎖渡しでは、足を滑らせて死ぬ村人が後を絶たず困っていたところ、一人の旅の僧が現れ、ノミを振るい始めます。名前は「禅海和尚」。
禅海和尚は若いころ、悪い仲間と共にケンカをしたり、物を盗んだりしていました。そして、もののはずみから人を殺してしまいます。その後、母の死で目が覚めた禅海和尚は、罪を償うために僧となり国中を巡っていました。その途中に橋渡しのことを耳にしたのです。
禅海は、雨の日も風の日も休むことなくノミを振るい続けます。とてつもなく無駄な作業を続ける禅海和尚に、村人たちは呆れてしまいます。それでも念仏を唱えながら、自分が人を殺してしまったことの罪償いとして一心に掘り続けます。
最初は、ほんの小さな岩穴だったのが、徐々にと深く大きな穴となりました。
1年、2年、3年と月日がたちますが、禅海は一心にノミを振るい続けます。
いつしか村人たちも心うたれ、手伝う人たち増えてきました。
やがて26年の年月が流れたある日のこと、一人の武士がこの岩穴にやってきます。この武士、禅海が若かりし頃に殺した者の息子・実之助。父のかたき討ちのために禅海を探しまわっていたのです。
禅海は実之助に言います。
「この四十年間、あなたの父上を殺した罪に苦しんできました。その罪ほろばしのために穴を掘り続けているのです。もう少しです。あと三年、命を貸してください。この洞道ができましたらいつでもあなたに討たれます。どうかお願いします」
そばで見ていた村人も、禅海の三年の命乞いをして工事を続けることとなります。
この後、今まで以上に一心に穴を掘り続ける禅海。村人たちも、懸命に工事の加勢をします。禅海を見張っていた実之助までも、早くかたきを討ちたい一心から手伝い始めます。
いっしょにノミを振るううち、禅海の真心が実之助の胸に響き、禅海への憎しみが薄らぎ、洞道を掘ることだけに力が注がれていきました。
そして、実之助が来てから3年目、禅海がノミを振るい始めて30年の月日がたった頃、禅海の打ったノミの先に、ぽっかりと小さな穴があき、その穴からは月灯りと共に山国川の静かな流れが禅海の目にはっきりとうつりました。
禅海は、30年間という月日をじっと噛みしめるかのように静かに目を閉じます。やがて目を開いた禅海は、実之助の手をしっかりと握りしめました。また実之助も、禅海の手を握りしめました。二人は共に涙を流し、憎しみも、苦しみも、悲しみも、すべてが山国川の流れの中に流れ去っていきました。
こうして、青の洞門は開通したのです。
この話、当時の大分県や福岡県の小学校では、道徳の授業の題材となっています。
さて、青の洞門に到着した私たちは、入り口手前の駐車場に車を止め、
トンネル内に侵入!
すると、
『禅海和尚の手掘り跡 青の洞門の明かり窓』 の案内板。
矢印通りに右に曲がると、
手掘りのトンネルが奥へと続き、陽が差し込む窓(穴)が見えます。
近づくと、
このような大きな窓と山国川。
さらに奥に進むと、
ノミとツチで岩を掘る『禅海和尚の像』。
その横には、お地蔵さん。
トンネル部分は全長144mととても長いトンネルでした。
これを手で掘り進めたのですね。(-_-;)
そして、このような看板を見つけていましたので、
今から『羅漢寺』に寄って帰ることにします。
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