宮崎県内の観光地を探していたところ、車で30~40分の場所に『薬師寺』を見つけました。
漢方屋を生業としている私ですので、これはきちんと参拝しておかねば、と思い立ち、
家内を連れて出発。ちなみに「薬師」は「くすし」とも読み、日本における医師の古称であり、
漢方薬の専門家を意味する言葉でもあります。
到着してみて分かったのですが、ここ『法華嶽 薬師寺』は「日本三大薬師」のひとつでは
ありませんか!!
「日本三大○○」に即座に反応する私。 俄然、ノリノリで参拝に向かいます。
この「法華嶽 薬師寺」は 1300年もの歴史があるようで、古くは日向・伊東氏や島津氏の
祈願寺として栄え、全国から「病気平癒」のための参拝者が多かった、とのこと。
そして、法華嶽薬師寺ではいろいろな伝説も言い伝えられています。
そのひとつが、こちらの
『和泉式部』 にまつわる伝説。ただ、この伝説、内容の異なるものがいくつかあるようです。
まず一つ目、
『業病(皮膚病)に冒された式部は、京都の清水観音のお告げにより越後と三河で巡拝祈願したが快復しなかった。そこで、この寺に籠もること3年、寺下の渓谷に降りて水行も重ねた。背を柱にもたせて睡眠するほどの苦行だったが、それでも平癒ぜず、絶望した式部は辞世の歌を詠み、遂に身を投げたのだそうだ。
その後、気を失った式部は、心眼に薬師如来を見る。すると病気は快復し、式部は喜んで京都に帰って行ったという伝説。』
というもの。
二つ目は、
『平安時代の歌人である和泉式部が病気になったとき、「日向の法華嶽薬師に参拝すれば治る。」というお告げを受け、参拝に来られました。そして、何日も何日もお願いしました。願いかなっていざ、京の都へ帰る途中、愛染川で川を渡れずに困っている年寄りを見付けました。自分を背負って川を渡してほしいという願いを、「汚い身なりのあなたを背負うつもりはない。」と言い放って一人で川を渡った式部は、ふっと見ると、もとの病気になっていました。振り返ると年寄りの姿がなく、薬師如来の化身であったことを悟ります。そして、薬師寺に引き返す途中、現在の「身投げ丘」で、病気が治らないことを悲しんで、身投げしようとしました。そこに、薬師如来様から、「そなたの病は心の病である。優しく清い心を持てばきっとよくなる。」というお告げがあったのです。そして、更に一心に祈願した式部は、無事、病気が治り京に帰ったということです。』
全く違う・・・。(-_-;)
この伝説とは別に、このような話も伝わっています。
明治の偉人、西郷隆盛は、月照和尚と錦江湾に身を投げます。、隆盛は助かりますが、月照和尚は帰らぬ人に…。このとき、二人は、法華嶽薬師寺へお預けの令により当寺へ送られる途中の出来事だったのです。伊東と島津の争いの後、薩摩藩の祈願寺となっていた法華嶽薬師寺は薩摩藩の政治犯が送られ預けられることもあったのです。
薩摩藩から薬師寺に送られるとき、東送りと西送りがあり、暗黙の掟として、東送りの際は、「長送り」と言って、国境(この場合、高岡の去川の関所)で命を絶つ慣わしとなっていたらしいのです。西郷隆盛と月照和尚は東送りであったことを悲観して、身を投げたのです。
ちなみに、先ほど「和泉式部の像」の写真を載せていますが、
本当はとても美しい方だったそうです・・・。(-_-;)
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