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実家の北九州に帰省した私は、今日も嫌がる巨漢の兄を連れて城址巡りに出かけます。本日は、九州を出て下関方面へ! 久しぶりに関門トンネルをくぐり抜け、車を走らせること約15分。櫛崎城に到着。
この櫛崎城は、戦国期に周防・長門を治めていた「大内氏」によって築かれた城であり、関ケ原の合戦以降は、『宰相殿の空弁当』の話で有名な「毛利秀元」が領主となり居城としています。
駐車場横に城址への入り口(階段)があります。
歩くこと2~3分。
すぐに天守跡の石垣に到着。積み直しをした石垣だそうですが、立派なものです。少し足を進めると、
天守台が見えてきます。天守台の横には、案内板。
『串崎城跡』 (以下、説明文)
串崎城は長府藩祖の毛利秀元が築城した近世城郭で、雄山城と称していました。
長門国一国と周防国の一部などを領有していた秀元は関ケ原の役ののち、毛利氏の防長二ヶ国への減転封に伴い、長門国西端の豊浦郡一帯を分知されました。
慶長7年(1602)に長府に入部した秀元は長府串崎を城地に選定しました。串崎は海に突出した半島状の地形で、北、東、南の三方を海と断崖が取り巻く要害となっていました。
室町時代、大内氏の家臣である内藤氏がこの地に城を築き、配下の勝間田氏が城主となって長府の街を警固しており、秀元はこの旧城部分を主郭として継承し、近世城郭として整備拡大していったものと推測されます。
作事奉行は秀元の客将となっていた細川元通の家臣である秋田清長が務めました。秋田氏は功山寺の再興なども行っており、長府藩草創期の主要な普請を手がけています。城地の西方から壇具川までに位置する御舟手、外浦、侍町、関峠などは「郭内」とされ、大身の家臣などが家宅を構えていました。
天守については、これを示唆する記録があり、また、天守台の発掘調査により建物の礎石なども確認されていることから、未完、完成、は別として、その存在を証することができます。
この城は、元和元年(1615)の一国一城令により破却され廃城となりましたが、軍事的な要地であったことから、幕末には関見台台場と城山台場の二つの砲台が築造されて攘夷に備えました。
しかしながら、元知元年(1864)の下関戦争で真っ先に砲撃を受け、またたく間に破壊されています。なお、秀元は廃城後、三の丸に相当する位置(豊浦高校の敷地一帯)に館を構えて居所と藩庁とし、長府藩の領国経営を行いました。
この天守台の石垣は、城下町長府のシンボルとして整備を行ったものです。
案内板の横から天守に登れます。階段を駆け上がってみると、
このような感じ。さらに階段を上がると、
天守跡には礎石のようなものが見えます。
そして、振り向くと、
関門海峡が一望できる素晴らしい眺め。海の向こう側は「北九州市門司」です。
手前左に見えるのが「くじら館」。もともとは小さな水族館でした。私が幼少の頃に、父に何度か連れてきてもらった記憶があります。今は閉鎖中。
この「くじら館」の向こう側は断崖絶壁となっていますが、下の浜辺まで下りていけるようなので行ってみると、
このような浜辺で、キャンプを楽しんでいるご家族もいらっしゃいました。
ふと横を見ると、天守台は見えませんが「櫛崎城」の遠景です。海側に岩礁。
この巨大な岩礁が、城を守っていたのでしょう。
浜辺で兄と仲良くたわむれるのにも飽きたのでそろそろ帰ることにします。
帰り道の関門橋真下付近に、
『長州砲』と言われる大きな大砲が並んでいます。
文久3年(1863)、長州藩は関門海峡を渡る外国船に砲撃を繰り返しますが、翌年アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊に大敗を喫し、この壇ノ浦砲台は占領され破壊されています。この敗戦により、外国の進んだ軍備に目覚めた長州藩は「開国・倒幕」へと転換し明治維新を実現する原動力となっています。
そして、この『長州砲』の横には、
「源平の戦い」を描いた銅像があります。
この壇ノ浦の地で、最期を覚悟した平知盛が一門にその旨を伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水します。知盛も後を追って海に身を投じ、 平家一門は滅亡したのです。
九州と本州の境となる関門は、それぞれの時代での様々な歴史の舞台となってきました。今では盆・正月の年2回しか会うことのできない兄と一緒に、生まれ育った故郷の歴史に触れることができ、妙な幸福感を感じながら、来年はこの関門海峡にある宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な「巌流島」に行くことを約束しつつ、この場を離れました。巨漢の兄は嫌がっていましたが・・・。 「歩きたくない」と・・・。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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