宇留津城址〔別名・塩田城~ 福岡県築上郡築上町宇留津〕

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宮崎から実家への帰省途中、あまり十分な時間は無いものの、時間が許す限り寄れるだけ寄ってみようと思い、まず1ヶ所目、『宇留津城址』へ!

宇留津城址前の国道10号線は以前から何度となく往復した道ですが、こんなにも近くに城址があることを知ったのは1ヶ月前のことです。

この宇留津城、調べてみると古くは源義経まで遡ります。
そして、戦国の世となったとき、九州も激動の時代に入ります。

長きに渡って続いている『薩摩・島津氏』と『日向・伊東氏』の戦い。
戦局が悪化し島津氏に圧迫を受け続けた伊東氏は、『豊後・大友氏』に助けを乞います。大友氏は日向に陣を進め島津氏と戦いますが、「耳川の戦い」で大敗。
大友氏は豊臣秀吉に支援を要請します。

秀吉は、大友氏と島津氏に対して停戦を命じますが、その際に島津氏にとって
受け入れがたい条件を含めて言い渡します。
島津氏は拒否の姿勢をとり、その後、筑後、筑前へと攻撃を開始。

一方、ここまで傍観の姿勢をとっていた『安芸・毛利氏』も、秀吉の命を受けたために、傍観するわけにはいかなくなります。九州の最大抵抗勢力は島津氏ですが、その他の小規模な国人勢力たちも、秀吉からの命に従わないために、黒田官兵衛を中心とした九州征伐が本格的に始まるわけです。
そして、宇留津城も戦場となります。

というような歴史が、実家のすぐそばにあったことを知らなかった私でした。

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大きな石碑が迎えてくれています。

駐車場に車を止めると、駐車場内に案内板を見つけました。

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『宇留津城址』

天正十四年(一五八六)、豊臣秀吉は九州統一のため薩摩の島津氏攻めを開始。先遣隊の軍監黒田官兵衛孝高は、毛利、吉川、小早川の中国勢とともに小倉城の高橋氏を攻略。さらに軍勢二万八千人で二千人が立て篭もる加来与次郎の宇留津城を攻めた。黒田勢は、母里太兵衛が先陣を務めたが大きな濠に阻まれた。しかし一匹の白い犬が濠の浅瀬を渡っているのを見て、そこから一気に攻めて落城。そして、妻子とも四百人余りを浜で磔にしたと伝えられる。須佐神社から宝積寺一帯が城跡で周辺の堀跡の塩田沼も埋め立てられてしまった。

とのこと。そして、石碑の横には『塩田沼』の説明。

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そして、城跡と言われている場所の、

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須佐神社です。

ゆっくり見たいのですが、時間が無いので次に行きます!
それにしても、なんという悲劇。
10倍以上の黒田の軍勢が攻めあぐねていたにもかかわらず、たった一匹の白い犬によって一気に落城の道へとたどるとは・・・。
それ以降、この辺りでは白い犬を飼わないという話があるそうです。

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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