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朝から曇り空です。
雨が降ってくる前にゆっくりと玖島城を巡りたい私は、長崎自動車道に乗って
一路「大村」を目指します。
この『玖島城』は、キリシタン大名である大村氏が居城としており、270年以上に渡って大村地方を領有してきました。
1587年 豊臣秀吉の九州征伐の際、時の領主 大村純忠は嫡子である大村喜前を秀吉軍に参陣させたため、大村の領土を安堵されています。この大村純忠、日本初のキリシタン大名として有名な方です。
そして、秀吉亡き後、この玖島城を築城したのが大村喜前。
その後の1614年、玖島城の大改修・拡張の時に、築城名人・加藤清正に指導を受けたとされています。
迷うことなく玖島城に到着。 雲行きがかなり怪しい・・・。(-_-;)
案内板を見つけじっくりと説明を読みます。
ふと左に目を向けると、
驚くほどに立派な石垣がそびえ立っています。この石垣、当時のまま大半が残っているらしいのです。そして、見えている櫓の下まで足を運び、写真を一枚!
圧倒されます! 壮観な光景です!
さらに左側に進むと階段があります。階段を上ると石垣の上の櫓入り口に到着。
この時、急に雨が降ってきます。それもかなり強い雨足。
『板敷櫓台』 (以下、原文)
大手入り口から海側に延びるひときわ高い石垣の中で、扇こう配の見事な曲線を描いて築かれたのがこの板敷櫓台である。この上には二層の櫓が築かれていたものと思われる。
板敷櫓台とは、この辺りの地名を板敷と言うことからその名が付けられており、大村湾を望む展望の名所である。
玖島城は慶長四年(一五九九)大村家第一九代大村喜前により築城され、慶弔一九年(一六一四)次の純頼の時に城の大改修が行われた。その時に大手門と板敷櫓台に延びる石垣が築かれた。
この大改修にあたっては肥後の城主で、城づくりの名人と言われる加藤清正に意見を求めたという記録も残されている。
平成四年三月 大村氏教育委員会
この「板敷櫓台」の前を通り過ぎ、少し歩くと『二の丸跡』。
その先には「大村神社」があり、神社の境内が『本丸跡』になっています。
傘をさしていても足元はズブ濡れの状態で写真を何枚か撮ります。
十分に散策した後に階段を下りようとしたところ、玖島城真下の大村湾沿いに白杭が見えるので近づいてみました。
『新蔵波止』とあります。
海に囲まれていた玖島城は、この「新蔵波止」をはじめ、「御船蔵」「船役所跡」などの海運施設が多く、海城としての特徴が残っています。
城周囲の遠浅の海の中に「捨堀」を設けるなどして敵の侵入を防いでいましたので、見た目以上に難攻不落の名城だったと伝えられています。
ふと海に目を移すと、
一羽の白鳥?? 白鳥がいるわけないよなーー、などと思いながら、
鶴?? いやいや、アヒル? ガチョウ? などと、鳥に詳しくない私は、
白くてやや大きめの鳥の名前を頭に浮かべるだけ・・・。
頭の中が「???」のまま、玖島城跡を後にしました。
あとで調べたのですが、大村湾には時折白鳥がいるのですね・・・。
でも、たったの一羽。
白鳥って集団で暮らすものとばかり思っていたのですが・・・。
「???」
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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