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「須木城址」を発ち車で約30分走り、『野尻城址』の近くまで来ているはずですが、なかなか場所が分かりません。一旦、近くのレジャーランド「のじりこぴあ」に車を止めて場所を尋ねてみることにします。
案内所に優しそうなおじいちゃんが一人。「野尻城ってどのあたりですか??」と聞いてみたところ、「中に入りなさい!!」とのこと。
おじいちゃん、テーブルの上にパァーーッと地図を広げ場所の説明を始めます。
さらにおじいちゃん、『野尻城の歴史』『伊東氏と島津氏の戦いの歴史』までも詳しく説明してくれます。そして、話は『西南戦争での西郷さんの話』や『野尻の源平合戦の話』までていねいに教えてくれました。
30分以上は案内所の中で話を聞いていたでしょうか・・・。
歴史好きな私にとっては何とも楽しいひと時であり、また、このような歴史探訪の途中での出会いがありがたくてたまらないのです。
最後におじいちゃん、「この辺りの城跡は、あまり遺構が残っていないから残念だけど、今説明した話だけでもお土産に持って帰りなさい。」との粋なお言葉をいただきおじいちゃんと別れました。
この『野尻城』。伊東氏48城のひとつ。
島津氏によって「高原城」が落とされたことで、伊東氏にとっての最前線の城となります。伊東義祐の家臣「福永丹波守」が城主として城を守っていましたが、島津氏は伊東義祐のいる佐土原城下に偽りの文書をばら撒きます。その文書の内容は、
「福永丹波守は、島津氏に内通している。」というもの。
その文書を読んだ伊東義祐は、福永丹波守を信じることができなくなります。
まんまと島津氏の策略にハマってしまう伊東義祐。
主君に信じてもらえない福永丹波守は、やむなく島津氏に寝返ってしまうのです。そして、最前線の地である野尻城を無血開城します。
宮崎(日向国)に住む私としては、何とも悲しいやら、切ないやら、情けないやらの複雑な心境になってしまう話。その後、一国一城令により廃城。
今は、本丸も二の丸も農地となっており、残っているのは『井戸跡』のみ。
で、おじいちゃんに教えていただいたとおりに車を走らせると、
案内板を発見!! さらに進むこと1km。
次なる案内板を発見!! 車一台しか通れないこの側道を登ってみると、
田んぼのド真ん中に『市指定史跡 野尻城 井戸跡』。
そして、案内板『史跡 野尻城址 「本城と新城」』。
すぐ真横に、
『市指定史跡 野尻城井戸跡』の案内板。
「井戸跡」を撮影して、この場を後にします。
井戸跡入り口のすぐ横に神社を見つけます。
お城近くの神社なのでお参りだけでも、と思いは行ってみます。
歩き始めてすぐ、道が寸断されていました。先日の台風の影響でしょうか・・・。
やむなく引き返し、次の目的地『戸崎城』へ向かいます。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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