益富城跡〔黒田六端城② ~ 福岡県嘉麻市中益〕

写真一覧はこちら

今年の夏、北九州の実家から宮崎に帰る時の城巡りの話です。
いつもは九州自動車道を走って宮崎に帰るのですが、今回は北九州からそのまま
国道を南下して、前々から一度は行きたいと思っていた『益富城』を目指します。

この『益富城』。
歴史は古く1400年代に築城されたと伝えられていますが、最も有名な話は豊臣秀吉の九州征伐の際の「一夜城」伝説。

30万以上の大軍で小倉に上陸した豊臣秀吉は、次々と周囲の城を攻め落としながら勢いに乗ってこの地に辿り着きます。秋月氏が守る「岩石城」をたったの1日で陥落させると、秋月氏は「益富城」を捨て、本城「古処山城」に退却します。
古処山城から見た益富城下は、一面、火の海となっていましたが、翌朝には火も治まり、一夜にして見事に益富城は修復されていたのです。
それを見た秋月氏は戦意を喪失し降伏した、という話。

実はこれらの状況、全てが豊臣秀吉お得意の『トリック(罠)』で作り上げていたのです。益富城下は全く火の海にはなっていませんでした。村人たちに一斉に篝火を焚かせたものだったのです。城も修復されてはおらず、村人たちに紙を貼らせただけのものでした。また、益富城には十分な水が貯蓄されているように見せかけるために、滝のように白米を流し続けさせたのです。

元来、豊臣秀吉は、敵方をなるべく殺さないようにして落城させる、ということを信念にしていた人ですから、それまでに誰も考えつかないような方法(トリック)を戦に取り入れて勝利を収めています。全国各地で、このような秀吉の戦いのエピソードは数多く存在しています。

また、関ケ原の合戦の後は、筑前国に入封した黒田長政が、本城である福岡城の防衛のために六つの出城を配置します。『黒田六端城』と呼ばれ、六つの城は全て本城・福岡城の東側に配置され、豊前国への構えとされています。
この黒田六端城の一つが「益富城」。

*黒田六端城(筑前六端城)

益富城(福岡県嘉麻市中益)
黒崎城(福岡県北九州市八幡東区)
若松城(福岡県北九州市若松区)
鷹取山城(福岡県直方市永満寺)
松尾城(福岡県朝倉郡東峰村小石原)
麻底良城(福岡県朝倉市杷木志波)

地図で確認すると、見事なまでに福岡城の東側を、北から南に向けて真っすぐに六つの城が配置されているのが分かります。

益富城は、「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人、『後藤又兵衛基次』が城主となり城を守っていました。『後藤又兵衛基次』と言えば「大坂の陣」での武勇が有名で、数々の戦国時代のドラマでも登場する武将ですね。

この『後藤又兵衛基次』の半生もとても興味深いものです。
幼少の頃に父親が病死し、すぐに黒田孝高(官兵衛)に引き取られ育てられます。ようするに、黒田長政と後藤又兵衛は兄弟のように育てられたということです。
孝高(官兵衛)は、長政よりも又兵衛を可愛がったという話も多く残っています。孝高(官兵衛・如水)の死から2年後、長政が継いだ黒田家から後藤又兵衛は出奔します。又兵衛と長政の不和は修復しようのないところまで来ていたのでしょう。出奔の後、武勇と智謀に優れた後藤又兵衛には多くの武将(前田利長、福島正則など)から召し抱えの声がかかります。しかしながら、ここで黒田長政の嫌がらせ?でしょうか、「奉公構」が出されて全ての話は水に流されてしまいます。
(奉公構 ~ 他家に対し、召し抱えることのないように、との文書を回すこと)
京都で浪人暮らしをしていた又兵衛に、1614年 大野治長から声がかかり大阪城に入場します。『大坂冬の陣』への参戦です。

黒田孝高、豊臣秀吉に仕えていた後藤又兵衛ですので、当然のように「豊臣秀頼」を加勢する道を選び「大阪城五人衆」として大暴れ、大活躍することになります。大坂冬の陣では大きな戦果を収め賞賛されます。
大坂夏の陣でも、敵武将を討ち取るなど孤軍奮闘しましたが、思わぬ霧の発生により、真田信繁ら味方の軍勢が後れを取ったため孤立します。
眼前の10倍以上の敵軍に対し、後藤又兵衛は突撃を敢行、乱戦の中、討ち死にした、ということです。享年56歳。

そんな偉大なる武将『後藤又兵衛基次』が、福岡の城を治めていたことだけでも
嬉しく感じるのです。

ようやく益富城のふもとに到着し、一気に山頂まで車で上ります。

image

駐車場に車を停め、

image

まずは、『出丸跡・別曲輪跡』から拝見! かなり広大な面積のようです。

歩くこと数分。

image

分かれ道に。 先に『出丸跡』へ。

image

歩きやすいようにきちんと整備されています。

image

『出丸跡』。

数分、ウロウロした後に引き返し、

image

『別曲輪跡』

それでは、いざ本丸へ!!

image

『本丸跡』へ誘導する案内板です。ここが本丸跡ではありません。

坂道を上り始めると、まず、

image

『空堀跡』の案内柱。 他の城跡と比較しても、とても立派な案内柱です。

「空堀跡」を左手に通り過ぎると、右側に開けた場所が。

image

ここに、『石垣跡』。 大きな石垣が無造作に転がっています。
ただ、この案内柱が立っているだけで、これらの石垣の歴史の重みを感じます。

そして、すぐそばに『水の手曲輪』。

image

ここで、場内で必要な水の管理をしていたのですね。井戸らしき跡は見つかりませんでした。 そして、

image

さらに上へと続きます。 そろそろ心臓がバクバク鳴り始めます。

階段を上る途中、

image

『空堀跡』。 こちらの空堀の方が分かりやすい。

そしてようやく、

image

山頂の城址入り口に到達。 『益富城址』の立派な石碑が出迎えてくれます。

image

『益富城址』

やっと本丸跡に着いたーー、と汗をぬぐいながら、ふと右に目を向けると、

image

ここは『二の丸跡』 (-_-;)

すぐ近くに、

image

『枡形の虎口』が残っています。 虎口を下りて、

image

虎口の入り口から写真を一枚!

では、本丸跡に向かって奥へと歩を進めます。 まず、左手に見えるのが、

image

『横矢』。 横矢狭間ともいい、ここから城を攻めてくる敵に矢を放ちます。

そして、益富城の全容を示す案内板。『益富城の規模』

image

やはり、かなり大規模な縄張りとなっていたようです。

さらに奥に進むと道が細くなり、右手の小高いところに、

image

『櫓跡』。 この案内柱が無ければ、ただただ草がボーボーなだけなので、何の趣も感じないまま通り過ぎていただろうと思われます。

そして、この先、一気に道が開け、

image

『本丸跡』 に到着。 いやーーー、歩いた歩いた・・・。(-_-;)

右に目を移すと、

image

石垣が残っており感動!

そのそばに、

image

『旗立石』

そして、その横に、先ほどよりもかなり大規模な

image

『櫓跡』。 よく見ると、少々手が加えられていましたが、それでも感動!

そして、この場所こそ、あの有名な

image

『白米流し跡』 水に見せかけるために白米を流し続けたそうですが、こんな山頂までお米を運び上げるだけでも一苦労だっただろうなー、と思わざるを得ません。

本丸跡の中央部に、

image

『建物跡 礎石群』 囲いがあり中には入れません。

image

そして、『畝状竪堀跡』。 この竪堀、案内柱があるから、なるほどーー、と思えますが、案内柱が無ければ素通りしかねません。

そして、最後に、

image

山頂の本丸跡から眼下を見渡し、写真を一枚!! もっと天気が良ければ景色もいいんだろうなーー、と思いながら、山頂から下りることにします。

今まで見てきた城跡の中でも、3本の指に入るくらいの壮大なスケールを感じさせる益富城址でした。

image

さて、車まで戻り、次の目的地に向かいます。
次も「黒田六端城」のひとつで、『松尾城(小石原城)』。
黒田孝高(官兵衛)ゆかりの城です。

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*