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「星隈城跡」からほんの数分で『月隈城(丸山城)』に到着。
星隈城跡のブログでも記しましたが、日田盆地内にある「月隈・日隈・星隈」の
3つの丘を総称して『三隈三山(日田三丘)』と呼んでおり、これら3つの丘の上には城が築かれ、北の丘に「月隈城(丸山城)」があります。
江戸の初期、この地に入封した小川光氏は3年もの年月をかけて月隈山上に城を築き、丸山城と名付けます。小川光氏の死後、1616年、石川忠総が入封し、永山城と改名。その後、日田の支配形態は公領・私領と移り変わっており、1868年、明治維新の動乱の中、窪田鎮勝が逃亡するまでの約180年間、天領として徳川幕府が治めていました。
多くの城跡を訪問すると、その多くは『一国一城令により廃城』という結末へ辿っているのですが、ここ月隈城(丸山城)は天領代官所して残され、明治を迎えている稀有な城跡です。
さて、車を駐車場に停めた私は、城跡入口へと歩いていると、いきなり驚かされました!
どうです! 立派なもんでしょう!!
「星隈城」のこともあり、あまり期待していなかった私は、想像だにしていなかった期待値以上の水堀と石垣に思わず嘆息しました。
そして、水堀を右手にして奥まで進み、
こちらからも写真を一枚!
いや〜〜、立派立派!!
この写真は水堀の上にかかる橋から写したのですが、橋を渡り切ったところの右側に城への入り口があります。そして、左側にはなんと、あの高校野球甲子園大会常連校、「日田林工」が隣接しているではありませんか!!
これまた驚き!!
では、城址内に入ります。今は「月隈公園」として憩いの場となっているそうです。とてもきれいに整備されていました。で、この場所は、
「三の丸跡」とのこと。ここが本丸跡だと勝手に思っていた私。
後から知ったのですが、実はこの「三の丸跡」の脇道を上れば「二の丸跡」「本丸跡」があったらしいのです。詳しく調べもしないで、そして時間に追われるように月隈城(丸山城)に立ち寄った私が悪いのです・・・。(-_-;)
なかなか日田市まで行く機会がないから、との思いが仇となりました。
毎度毎度の反省。
懲りない私ですがこれも性分。きっと治らないのかなーーー。(-_-;)
その脇道の辺りに、
このような横穴が無数にあります。
千数百年前に造られた横穴式の古墳(墓)らしいのです。
この横穴の前を通り過ぎて真っすぐ進むと「二の丸跡」「本丸跡」へと行き着いたようなのです。 あーーーー、くやしっっ!!
いずれまた、必ずやリベンジの再登城を試みるつもりです!!
あーーーー、くやしっっ!!
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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