⇒ 写真一覧はこちら
「月隈城(丸山城)跡」を出て、若干道に迷いながらも数分で『日隈城』に到着。
星隈城跡・月隈城跡のブログでも記しましたが、日田盆地内にある「月隈・日隈・星隈」の3つの丘を総称して『三隈三山(日田三丘)』と呼んでおり、これら3つの丘の上には城が築かれ、南の丘に「日隈城」があります。
この『日隈城』。
1592年、豊臣秀吉のもと、代官として入封した「宮城豊盛」によって築かれます。その数年後、「毛利高政」が移封されて城の増築を施し、五層六階の天守、三層の櫓などが建てられました。1600年、関ケ原合戦の際、毛利氏は西軍として参戦していたため、中津・黒田如水(官兵衛)と相対することになります。毛利氏は籠城しますが、黒田如水による再三の説得に応じ、無血開城。代わって、黒田氏の重臣、栗山利安が日隈城に詰めることになります。
その後、小川光氏により月隈城(丸山城)が築かれると、日隈城は再び毛利氏の
預かりとなりますが、毛利氏も移封され、月隈城(丸山城)城主・小川氏が治めることになります。そして、一国一城令により廃城。
さて、この日最後の訪城です。
城跡は今、「亀山公園」として市民の憩いの場となっています。
公園入口に、このような案内碑がありますが、
かなり傷みが激しい状態でした。文字が読めないところが・・・。(-_-;)
北側に回り、日隈神社の鳥居をくぐって、
登城を開始します。
階段を上り切ったところが、
おそらく「二の丸跡」でしょうか・・・。
そして、奥に歩き進むと、
なかなか雰囲気のある石垣を見ることができます。ただし、ここ日隈城で、遺構として残っているのは、この『枡形虎口の石垣』くらいのものでした。
そして、「本丸跡」を目指して、さらに登ろうとしたところ、
『お山がくずれます。』 (-_-;)
落石に注意しながら慎重に登っていくと、
「本丸跡」と思われる頂上に到着。日隈神社の拝殿が見えます。
そして、お参りした後に下りました。
最後に、
少し城跡から離れて、日隈城跡の遠景を一枚撮り、宮崎へと帰りました。
結局、この日一日で5つの城跡を巡り、それぞれの歴史に触れることができ大満足です。「月隈城(丸山城)」に後日再訪城するという宿題が残りましたが、
いつの日かまた、日田を訪れる日が今から楽しみです。
『宿題』って、残しておくものですね・・・。(*^^*)
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
Leave a Reply