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小倉城天守を出た私は、もう一度北ノ丸に戻り、まずは八坂神社でお参りをすることにします。
1617年、細川忠興は小倉藩の総鎮守として祇園社を建てます。
これが現在の「八坂神社」。
翌1618年には、小倉祇園祭が始まります。小倉祇園祭は、現在に至るまでの約400年間続いており、映画「無法松の一生」でも描かれていることで有名ですね。
さて、お参りを済ませた後、北口門から出た私は小倉城庭園に向かいます。
その途中、この鳥居をくぐるのですが、
参道の両脇にはこのような大きな石。その横には案内板。
『中津口門の大足』 (以下、原文)
後方にある二基の大石は江戸時代、古船場の中津口門の石垣で、細川忠興が慶長七年(一六〇二)に小倉城を築くとき大谷から運んできた。大石は上富野で動かなくなり、忠興は頭の富岡某を手討ちにしたので、石は勢いよく運ばれた。村人は富岡を哀れみ地蔵堂を建て供養した(現在この富岡地蔵は、安全寺に安置されている)。
これを聞いた小笠原四代藩主忠総は「二つに割って運べば命まで奪わずにすんだ。石の大小は勝負にかかわらぬ」と言ったという。これを「細川の大足」「小笠原の割石」といった。
明治になり中津や築上の青年が多数小倉に来た。門を入る時、大石をにらむと成功すると言われ一心ににらんだ。「大石にらみ」という。
中津口門を解体した明治三十四年に、藤井昇吉が三本松の高倉稲荷神社に大石を移した。平成十二年に高倉稲荷は八坂神社に合祀されたので石も移した。
こうやって写真を見ると、小倉城の石垣と大石がお似合いで、なんともいい感じ。(^o^)
では、いよいよ今日の最後の目的地「小倉城庭園(下屋敷)」へ!
『小倉城庭園』
小倉城主の下屋敷跡に、江戸時代の大名屋敷を再現した施設。もともと下屋敷とは、城主が茶や能を楽しんだり、客を迎える接待場所として使用されていたいたそうです。今でも、伝統的な生活文化の継承を目的として、茶の湯やお香の体験など様々な企画・展示で利用されているとのこと。
では、小倉城庭園に300円払って入ることにします。
入るとすぐに、和装の方々が私の前を会釈して通り過ぎます。
何か催し物をしているのでしょう。
玄関口から屋敷内に入り、
ここで靴を脱ぎます。 そして、この畳の間を右に折れると、
すぐに庭園と池が見えます。 縁側を歩き奥に進むと、
左手に畳の大広間があります。 そして、大広間から庭園を見た風景が、
こちら!
さらに、右に目を移すと、
小倉城天守が見えます。
小倉城庭園から小倉城天守を望む最高のアングル!
小倉城庭園に入らないと撮ることができない写真です。
そして、屋敷を出て、
庭園に下りてみます。
庭園内、池のほとりから屋敷外観を1枚パシャッ!
私の目の前に鳥さんが一羽。
風情を感じながら写真を撮るものの、屋敷の後ろには近代的な建物の商業施設が見えてしまいます。やや趣に欠けてしまうのは否めません。(ー ー;)
数分、庭園内を散策したのち、ふと顔を上げると、
先ほどの鳥さんが木の上に!
「鳥さん、動かないでねーー」と念じつつ、鳥さんと小倉城天守を一枚の写真に収めました。本日のお気に入りの一枚です!(^o^)
もうかれこれ3時間は小倉城にいます。
「若松城跡」から始まり「小倉城の八つの門跡」「小倉城内と天守」そして「小倉城庭園」と、今日は我が故郷・北九州の歴史を十分に堪能することができました。やはりお城巡りは、時間に追われることなく、ゆったりとした気持ちで見学するものだと改めて再認識した次第です。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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