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『庄内の乱』の引き金となった、島津氏による伊集院忠棟の斬殺事件。
島津氏の筆頭家老「伊集院忠棟」は、島津家のために尽力し、数々の戦でも功績をあげます。そして、秀吉の九州征伐時にも、島津家を守り抜きます。
その結果、秀吉に認められる存在となり、それが島津家中での嫉妬と不満を生み、島津忠恒に斬殺される、という事件。
その伊集院忠棟が居城としていた『鹿屋城』を本日は目指します。
鹿屋城のあるここ大隅半島は、もともと肝付氏の勢力下であり、南北朝時代の頃になると島津氏と肝付氏との間で激しい争いが始まったようです。
その後、肝付氏は島津氏に従うようになり、肝付氏の分家・鹿屋氏がこの地域を与えられ鹿屋城を築いたと言われています。
ただし、両氏の平穏な時代は続かず、その後も肝付氏と島津氏は抗争を繰り返し、1530年には一旦肝付氏の所領に戻っています。しかしながら、1570~1580年にかけて島津氏が圧倒し、肝付氏の所領は島津氏に奪われ、戦国大名としての肝付氏の歴史は終焉します。
その後は、鹿屋城主として伊集院忠棟が入ることとなり約15年間居城としますが、秀吉により都城8万石を与えられることにより、鹿屋城を去ることになります。
そして、事件が起こるわけです・・・。
我が家を出て2時間以上経過、ようやく到着した私は無料駐車場に車を止めます。すぐに案内板も発見!
『史跡 鹿屋城址 (別名 亀鶴)』
そして、案内板のすぐ左に、
城址への入り口があります。
真っすぐ進むと、
『史跡 鹿屋城址』 の案内石碑。
さらに1~2分歩くと、
城山公園になっている「二の丸跡」に到着。
実は、ここを訪れた時にはこの場所が「本丸跡」と思っていた私。
何も調べずに行くからこういう勘違いをしたまま散策していました。
『亀鶴城址』 の石碑。
あとで調べて分かったのですが、「本丸跡」は配水池となっており立ち入り禁止になっているとのこと。
ここ「二の丸跡(城山公園)」は、春には桜の咲く美しい公園だそうです。
また桜の季節に再訪したいものです。
でも、もう来ないかな~~ (-_-;)
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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