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「桶狭間古戦場伝説地」から高速道路を使って約50分、慣れない大都会・名古屋の交通環境に右往左往しながらも、なんとか『清州城』に到着。
「清州城」は、歴史の様々な場面で登場します。
織田信長が桶狭間に向けて出陣したのが、ここ清州城。
織田信長と徳川家康の同盟関係を結んだのも清州城。いわゆる『清州同盟』。
信長亡き後、後継問題で会議が開かれたのも清州城。『清州会議』ですね。
この「清州城」。
織田氏の居城として有名ですが、もともと織田氏は尾張・遠江・越前の守護である「斯波氏」の家臣であり、1400年代前半に斯波氏が清州城を築城。織田氏は斯波氏の守護代として尾張に入り、その後も尾張守護代を世襲することになります。
当時、織田氏には『伊勢守家』と『大和守家』があり、争いが絶えません。
1467年の「応仁の乱」では、それぞれが西軍と東軍に分かれて対立します。
乱後、幕府の介入により、尾張国の「尾張上四郡」と「尾張下四郡」をそれぞれが治めることで和睦。
しかしながら、1494年の美濃守護「土岐氏」の家督争いの際、再度対立。
尾張の国内情勢は乱れ、その間隙をぬって駿河・今川氏の家臣「北条早雲」が
遠江・尾張に攻め込み、ここから「斯波氏」と「今川氏」の長い抗争が始まります。この長い戦いの最中、「大和守家・織田達定」が斯波氏に対して反旗を翻す
事件が起こるものの、返り討ちにあい下剋上は失敗。しかしその後に、斯波氏は
今川氏に敗れ、斯波氏の権威も失墜してしまいます。
そんな中、台頭してきたのが大和守家の家老一族である「織田弾正忠家」。
ようやく信長一族の登場です! もちろんこの頃はまだ、信長は生まれていません。
織田弾正忠家の「織田良信・信定父子」は、次々と勢力を拡大し、信定の子・
「織田信秀」に家督を譲った時には主家を凌ぐほどの強大な力をつけています。
信秀は、更なる勢力拡大のために「美濃・斎藤道三」「駿河・今川義元」「三河・松平氏」との抗争を繰り広げる中、今川氏豊から「那古野城」を奪い取ります。
そして信秀は、嫡男である幼少の「織田信長」に那古野城を譲り、信長は幼いながらも初めての城主となるわけです。
父・信秀の病没の後、織田信長の尾張統一に向けた凄まじいばかりの戦いの歴史が始まります。まずは主家である大和守家「清州織田氏」を滅ぼし、この時に清州城に入城し居城としています。その後、織田一門の宗家であり宿敵でもある伊勢守家の「岩倉織田氏」を滅ぼし、最後には「斯波氏」までも追放し、遂には尾張の国主となるわけです。 そして、この清州城から「桶狭間の戦い」へと時は進みます。
ちなみに、信長が入城するまでの清州城は、尾張下四郡を治めていた大和守家である「清州織田氏」の本城として機能していました。
さて、清州城・天守近くの駐車場に車を止めた私は、天守の横を通過して、橋を渡り、まずは『清州公園』に向かうことにします。
橋を渡り終えたところからの清州城の眺め。
歩いていると、
『信長公銅像への道』 とアスファルトの道路上にも案内が。
そして、
「清州公園」への下り階段。
下りるとすぐに、
「織田信長」と「帰蝶(濃姫)」の銅像。
信長の正室・帰蝶(濃姫)は、美濃の蝮こと「斎藤道山」の娘ですね。
そして、「帰蝶(濃姫)」と「明智光秀」が従兄弟の関係であり、
斎藤道三がその資質を認めていた若者たちが「織田信長」と「明智光秀」であり、
ゆくゆくは『本能寺の変』へと至るわけですから、切なくも不思議な話です。
清州公園は本当に美しい公園です。
数本ですが、まだまだ見頃の紅葉も残っていました。
さて、今からはすぐ隣の『清州古城跡公園』に向かいます。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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