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現在建っている「清州城」は、あくまでも模擬天守であり、当時のものは全く存在していないらしく、さらに模擬天守が建っている場所すらも、当時の清州城が建っていた場所ではない、とのこと。
それを聞いてしまうと、正直、興醒めしてしまいます・・・。(-_-;)
では、本来、清州城が建っていた場所はといいますと、
それが、ここ『清州古城跡公園』。
『清州古城跡公園 信長公顕彰への道』 の案内。
ここから公園内に入ります。 すると、右手に、
『古城跡』の案内板。
矢印の通りに進むと見えるのが、
お社と2つの石碑。 とても厳かな雰囲気のある場所です。
そして、案内板。
『清州城の概要』 (以下、原文)
清州城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重が守護所下津城(現稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清州に築城されたと伝えられています。その後、文明八(一四七六)年に守護所下津城が戦乱で消失して以降、守護所は清州城に移ったとされています。
この時期には尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏が尾張の上四郡を、清州の織田氏が下四郡を分割支配しました。清州織田家当主信友が守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘知元(一五五五)年、那古野城にあった織田信長は、清州城を攻め信友を討ち、清州城に入城し、尾張支配の本拠地とします。永禄三(一五六〇)年に桶狭間の戦いに勝利するなど信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ歩みを進めますが天正十(一五八二)年本能寺の変により雄図半ばで、その夢は絶たれます。
信長没後、天正十(一五八二)年の清州会議の後は信長の次男信雄が尾張、伊勢、伊賀の領主となります。当初は伊勢長島に居城を構えていましたが、天正地震、木曽川洪水等を契機に本拠を清州城に移します。この頃、清州城は大改修が行われたと推測され、天守、居館始め門塀、三重の堀等を築き城郭の規模も東西1.6㎞ 南北2.8㎞もあったといわれています。
信雄以降、豊臣秀次・福島正則・松平忠吉・徳川義直という錚々たる武将が清州城主となりましたが、慶長十五(一六一〇)年、徳川家康は清州廃都、名古屋遷都を指令し、三年後には「清州越し」が完了し、当時の歌として「思いがけない名古屋ができて、花の清州は野となろう。」が残っています。清州越しにより清州城は廃城となり、石垣、橋、武家屋敷などの古材は名古屋城築城に利用され、名古屋城の西北隅櫓(清州櫓)は清州城を移築したとも伝えられています。
お社で手を合わせお参り。
左には大きな石碑。
『右大臣織田信長公古城跡』
将軍を立てて天下統一を図ろうとしていた信長ですが、途中、足利義昭に見切りをつけ追放した後、朝廷に近づきます。朝廷・天子の名のもとに天下統一を目指すわけですが、その際に朝廷より『従二位』を叙され『右大臣』に任命されています。
そして、ぐるっと回って表の橋の入口まで戻ると、石垣と案内板。
『清州城の石垣』 (以下、原文)
清州城は、応永年間(千四百年頃)に、尾張守護職であった斯波義重により守護所下津城(現稲沢市)の別郭として築城されたといわれている。その後、文明八年(一四七六)守護所が清州に移されると、津島などとともに尾張有数の都市として繁栄した。
その後、織田信長、織田信雄と城主をかえ、徳川家康の命により慶長十五年(一六一〇)「清州越」が始まり、城下の住民や石垣、建物等の大部分が名古屋城へ移され清州城は廃城となる。
復元された本石垣は、平成八年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清州公園前の五条川右岸(現地は下流二〇〇米に銘板で表示)で発見されたもので、清州越直前の本丸南側の石垣と考えられている。
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。
目の前の五条川下流で発見された石を積み上げて復元した石垣とはいえ、
十分にその当時に思いを馳せることができる石垣でした。
さて、今から清州城天守に上ってみます!
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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