⇒ 写真一覧はこちら
佐賀城を出た私たちは、車で2~3分のところにある『水ケ江城跡』に到着。
ここには当時の遺構が全く残っていないことを知っていましたが、ぜひとも寄ってみたいと思っていた場所。と言うのも、ここ「水ケ江城」は北部九州の英雄であり『肥前の熊』として名高い「龍造寺隆信」が出生した城なのです。
龍造寺隆信が生まれた「水ヶ江龍造寺家」は、本家「村中龍造寺家」の分家。
この分家を興したのが、隆信の曾祖父「龍造寺家兼」。この家兼「武勇・知勇」に優れた人物であり、本家「村中龍造寺家」を凌ぐ力を持つほどになります。
そして、九州では珍しい『下剋上』により勢力を拡大していくのです。
もともと龍造寺氏は、肥前・筑前の守護大名「少弐氏」に仕えていました。
戦国初期、北部九州に攻め込んできた「周防・大内氏」と「豊後・大友氏」が激戦を繰り返す中、少弐氏は大内氏により肥前一国まで追いやられてしまいます。
1530年、大内氏は肥前をも支配するために肥前・少弐氏への侵攻を開始。
ここで少弐氏は龍造寺氏に出陣を命じ、『田手畷の戦い』が起こります。
龍造寺家兼は、一門である鍋島勢を率い大内氏を打ち破る戦功をあげました。
そしてここから下剋上が始まるのです。
まず家兼は、敵であった大内氏と通じることで少弐氏を追い詰め自害させます。
少弐氏を裏切り、大内氏庇護の下で独立することに成功したのですが、1544年、
家兼の下剋上に憤怒する少弐氏の家臣・馬場頼周らは、調略を重ねつつ龍造寺氏を襲撃。家兼は一族の多くを殺され、肥前を追われ築後に逃げ落ちることに。
家兼は、築後に逃げ落ちる際に出家していた隆信を連れて行き還俗させます。
築後では「蓮池氏」に保護され、援助を受けつつ再起を図ります。
そして1546年、少弐氏の家臣・馬場頼周らを討ち、再び肥前に戻ることに成功。
この復讐劇を成しえた時の家兼は、なんと90歳を過ぎていながらも馬上から指揮を執っていたそうです。なんとも元気なじいちゃん・・・。(-_-;)
家兼が93歳で他界した後、「水ヶ江龍造寺家」を継いだのが「龍造寺隆信」。
さらには本家「村中龍造寺家」の家督まで継ぐことになる隆信は、肥前統一に向け動き始めるものの、またも家中の内紛により筑後へと追いやられます。
そして、再び蓮池氏の保護を受けること2年。家兼同様、再度肥前へ挙兵し奪還。
ここからの龍造寺隆信は凄まじいばかりの勢いで勢力を拡大します。
「耳川の戦い」で大友氏の敗走の報を耳にするやいなや、大友氏の勢力圏へ侵攻し大友氏を圧倒します。さらには九州中央部への進出を狙い、なんとなんと恩義ある蓮池氏をも騙し討ちし筑後・柳川を制圧。
最盛期には「5州2島の太守」となる巨大勢力を領する大大名へと成長しました。
しかしながら『恩ある蓮池氏への裏切り行為』は、筑後での離反を招く原因となり、その後の1584年、『沖田畷の戦い』では島津氏に大敗を喫し、この時に隆信は討死。短期間のうちに勢力を拡大したため、まだまだ龍造寺氏の基盤は脆く、
家臣団の結束も強固ではなかったため、衰退への道も早足だったようです。
そして、この後からは『鍋島氏』が龍造寺氏の遺領を継承することになります。
そんな破天荒でドラマチックな龍造寺氏の歴史を知ると、どうしても龍造寺家兼・隆信のゆかりの城「水ケ江城」には訪れてみたかったのです。
『龍造寺隆信 生誕地』の案内板のある公園入口。
公園内に入ってみると、
まーー、立派などデカい石碑です!!
石碑の上で子供たちが遊んでいますが・・・。(-_-;)
石碑の前には、
『佐賀市史跡 龍造寺隆信誕生地』
そして、石碑の左横にも、
『龍造寺孝信誕生地』の碑。
今は石碑と案内板が建っているのみですが、この辺り一帯が5つの郭から成る広大な敷地を誇る水ケ江城だったと思うと感慨深いものです。
さて、次はここから程近いところにある、鍋島三支藩の一つ『蓮池城址』に向かいます。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
Leave a Reply