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私が住むここ宮崎は、戦国の世には『伊東氏』が治めていた土地。
日向一帯の勢力拡大に成功した伊東氏ですが、その栄華も長くは続かず、「島津氏による侵攻」や
「家中の反乱」により、日向より北方の『豊後・大友氏』のもとへと逃げ延びることになります。
その『大友宗麟』の居城である「臼杵城跡」を本日は目指します。
1560年代、大友宗麟は、臼杵湾に浮かぶ「丹生島」に築城を始めます。
(当時は「丹生島城」と呼び、のちに「臼杵城」)
丹生島城の頃は、東・北・南を海で囲まれ、西側も干潮時のみ陸続きにはなりますが、
満潮時には四方を海で囲まれた天然の要害を成す海城。
その後の臼杵城は、大友宗麟が干潟を干拓し城下町を整備します。
キリシタン大名である大友宗麟のもとに、多くのキリシタンたちが集ってきたため、
城下町は大いに賑わっていたようです。
かの有名なポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録によると、城下には多くのキリスト教の施設
大聖堂・修道院などあり、城内には礼拝堂も建立していた、とのこと。
では、登城開始。
『史跡 臼杵城跡』 の石碑。 「大手口」より水堀にかかる「古橋」を渡ります。
橋を渡り、鳥居をくぐるとすぐ左に案内板。
『大分県指定史跡 臼杵城跡』
案内板を過ぎると、
坂道が現れます。 『鎧坂』というらしい。
登り進めると、
櫓が近づいてきます。
写真左側の櫓が、
『畳櫓』 なんと当時の現存らしいのです。
畳櫓前を通過すると、すぐに見えてくるのが、
『大門櫓』 これは復元。
この大門櫓をくぐり抜けると、
『二の丸跡』 整備された美しい公園。
ここから右(南)に向かうと、
『井楼櫓』
ここ臼杵城は、なんせ櫓が多い。 後で調べて分かったのですが「31基」もの櫓が点在しています。
来た道を引き返し、二の丸跡中央に移動します。
『臼杵護国神社』 「稲葉神社」とも呼びます。
臼杵藩の歴代藩主は「稲葉家」。あの西美濃三人衆の一人で「頑固一徹」の語源にもなった「稲葉一鉄」
の嫡男「稲葉貞通」以後、15代まで稲葉家が継いでいます。そして、稲葉一鉄公と臼杵藩歴代藩主の御霊を
祭祀するために創建されたのが、ここ稲葉神社。
へぇ~~~、知らなかったーーー。
そして、神社の横には、
『大友宗麟公碑』 と 『佛狼機(フランキ)砲碑』
キリシタン大名である大友宗麟は、南蛮貿易を盛んに行いポルトガル製の大砲「フランキ砲」を有して
いました。島津氏との「丹生島城の戦い」では、このフランキ砲で応戦し、島津勢を敗走させています。
さて、ここからさらに奥(東)に進むと、いよいよ本丸跡。
その本丸跡の手前には、
広大な空堀。 本丸と二の丸の境界となります。
この石垣手前の空堀も本丸と二の丸の境界となります。
この石垣の上には『鉄門櫓』と『武具櫓』。
では、これより
『本丸跡』
本丸奥まで進むと、
海が見えます。 もともとは、この真下は海でした。
この場所で、振り返って本丸跡を見たのが、
この風景。 桜の木で覆い尽くされています。 春、桜の咲くころは美しい景色なのでしょう。
そして、本丸跡から南側に目を移すと、
現存の『卯寅口門脇櫓』と『卯寅稲荷神社の鳥居』が見えます。
次に、城跡の北側に沿って移動。
『天守櫓跡』『埋門前櫓』を通過し、二の丸北側の
『着見櫓』の石垣から撮った写真。
散策すること約1時間。
大手口まで戻り、最後に臼杵城の全景を一枚撮り、次に向かいます。
ここから宮崎に向けて南下する途中の『佐伯城跡』へ出発!
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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