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当店より車で20分足らずのところにある「穆佐城跡」。
『伊東氏48城』のひとつとして数えられていますが、歴史はかなり古く築城したのは
「足利尊氏」らしい。
知らなかった・・・。(-_-;)
1400年代初頭、島津氏8代当主・島津久豊が入城の後、9代島津忠国がこの城で生まれています。
1445年、日向・伊東氏の支配となりますが、1577年の伊東崩れの後は島津氏の支配に戻ります。
1615年、一国一城令により廃城。
下の写真のように、ここ穆佐城跡は『国指定史跡』なのですが、
地元宮崎でも意外に知られていないお城・・・。(-_-;)
と言いますのも、
登城口が分からない!!
案内板はあっても、登城口の説明が無い!!
登城口の近くまで行っても、誘導看板すらない!!
数多くの城跡を訪問しましたが、ここ「穆佐城跡」ほど迷いに迷った城跡はありません。(-_-;)
『国指定史跡』なのに・・・。(-_-;)
この「案内柱」の通りに進んでいくと、「案内板」が見えてきます。
『国指定史跡 穆佐城跡』
詳しく親切に説明してくれています。 でも、登城口の説明が無い。
とりあえず、この案内板の右手にある
『高木兼寛生誕地』の方向へと階段を上ってみます。 すると、大きな案内板。
『高岡町出身 ビタミンの父 高木兼寛』
「病気を診ずして病人を診よ」
素晴らしい!!(*^^*) 同感同感!!(*^^*)
漢方医学の立場に身を置き、西洋医学の医療現場にちょっとだけ不満・不信を抱く私としては、
大いに共感する言葉です。
穆佐城跡の登城口が分からなかったおかげで、ここに導かれました。
案内板の前には、
『高木兼寛先生之像』
一礼して、階段を下ります。
先ほどの穆佐城跡の案内板まで戻った私。 この案内板の左側に目を向けると、
何やら登城口のような上り坂が・・・。 しかしながら「町有地につき立入禁止」の看板。
構わず登りたいところですが、私もいい大人なので断念。(-_-;)
その後、数人の方々にお尋ねし、ようやく登城口を見つけたものの、
またもや、『立入禁止』の大きな看板。 後ろには工事車両。
小さな駐車場への入口にも進入禁止のための柵が・・・。
ふと左手に目を移すと、
二手に分かれる道。
右側の上り坂は、どう考えても城跡へ続く道のように見えます。 しかも、立入禁止の案内無し!!
よし! ならばこっそり登城開始。
ただ、イヤ~~なものが目に入ります。
『急傾斜地崩壊危険箇所』
見なかったことにして、
登城開始します!!
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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