紫波洲崎城跡〔伊東氏48城 ⑪ ~ 宮崎県宮崎市折生迫〕

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我が家から車で約20分。
この日は、海に面した丘陵の上に築かれていた「紫波洲崎城跡」に向かうことに。
この城も『伊東氏48城』のひとつ。

私自身、この「紫波洲崎城」のことをよく知らないので調べてみたところ、
なんと、あのウィキペディアにもない・・。(-_-;)

いくつかのサイトで紫波洲崎城を説明していますが、その中でも「へぇーーーー」と思いながら
読ませていただいた『紫波洲崎城物語』をご紹介します。
(以下、「紫波洲崎城物語」からの引用)

西暦1200年の頃、青井岳の東(山東)に伊東氏。西(山西)に島津氏がいて、互いに勢力を広げようと戦いをくり返していました。島津氏は、山東に勢力を伸ばそうとして1397年に兵を出して、伊東氏の清武城を攻めました。清武城が落ちると、今度は加江田の車坂城を攻め落としました。

このため、山東はみな島津氏につきました。続いて曾井城の城主も島津氏の味方になろうとしたので、伊東氏が怒って曾井城と島津氏を攻め、山東を奪い返しました。そして、内海峠城を築いて車坂城と共に島津氏に備えました。しかし、島津氏が油津から船で内海に着き、内海峠城を攻めようとしたら城兵は城を捨てて逃げてしまいました。

その後、伊東氏は力を盛り返して曾井城を落としました。この時、紫波洲崎城の城主は長井式部少輔という人でした。伊東氏が長井氏の身内を使って城を渡すように説得したところ、最初は「無茶な言い分だから、刀にかけても渡さない」と言っていたが、とうとう説得されて明け渡すことになりました。

1480年、島津氏が飫肥から進んで来て紫波洲崎城を落としました。佐土原にいた伊東氏はこれを聞いて自ら兵を率いて宮崎に出てきて、加江田の車坂城を攻めました。城兵はあわてて城を焼いて逃げました。次に内海峠城に進んで、足軽に命じて大内海の民家を焼き払わせました。この頃が伊東氏のいちばん栄えた時で自分は佐土原城にいながら、領内に48の城をきらぼしのように配置していました。

紫波洲崎城は、その48城の1つで、城主は河崎和泉守になっていました。車坂城と内海峠城はもうなくなっていたようです。紫波洲崎城はその後1615年に徳川幕府から、一国一城令と言う命令が出て、取り壊されて廃城となってしまいました。

つわものどもの夢の跡、城山にのぼったとき、こんないきさつを思い出してみてください。

全国的には全く知られていない城ばかりが出てきますが、「紫波洲崎城」をはじめとして
「清武城」「加江田の車坂城」「曾井城」「内海峠城」「佐土原城」など、
宮崎県人にとっては馴染みのある地名の付いた城名なので、とても面白く読ませていただきました。

紫波洲崎城跡のある山の麓まで到着し、ここからは狭くて急な上り坂を上ります。
道の両脇からは、何やら背丈の高い植物が道の中央に向かって伸びてきており、
車のいたるところをこすっています。

「あーーー、車に傷がつくーーー (-_-;) 」

と思いながらも、もう引き返せません。
ようやく頂上までたどり着き、駐車場に停めます。

駐車場の隅に案内板。

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『紫波洲崎城(紫波洲崎城縄張り図)』

では、登城開始。

最近では、誰もこの道を歩いていないんだろうな~~、と思わせるような、

上り坂を歩いて行くと、

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見えてきたのが、

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『宮崎仏舎利塔』

宮崎市内のお寺の尼さんによって建造された、とのこと。

おそらくは、美しい塔だったに違いないのだが、今ではかなり傷みもひどく

塔内には入れないようにロープが張っています。

少し奥まで歩くと展望台。

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なんと眺めの良い!! 眼下には宮崎有数の観光地「青島」の風景。

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この写真には「青島ビーチ(青島海水浴場)」が見えますね。

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この写真の山の麓は「青島ゴルフ倶楽部」です。

数年前までは、よくこのコースを回っていました。

とても難しいコース! (と私だけが感じているのかも・・・)

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そしてこの写真は、別の日に撮ったもの。

先ほどの「青島ビーチ」近くから撮影した紫波洲崎城の遠景。「宮崎仏舎利塔」が見えますね。

こうやって遠くから紫波洲崎城跡を見てみると、海に面し、自然を利用した要害であったことがよくわかります。

この近くで売っている、焼きたてホカホカの「チーズ饅頭」が美味い!!

食って帰ります。

 

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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