⇒ 写真一覧はこちら
我が家からはすぐ近く、車で約15分のところにある『安井息軒旧宅』。
いつでも行けるから、と思うとなかなか行くことはない。
というよりも、正直よく知らない。
江戸時代の儒学者で、大先生らしい・・・。
でも、よく知らないのでなかなか足が向かない・・・。
この日の朝、スマホでニュースを見ていて、たまたま「もうすぐ梅の花が見頃」との記事を見つけ、
宮崎市内の「梅情報」を探していたところ見つけたのが「安井息軒 梅まつり」の記事。
見つけた!!
ようやく「安井息軒旧宅」に行く理由を!!
で、家内と愛孫を連れて行ってみました。
『史跡 安井息軒旧宅』
思っていた以上に、きちんと整備されていてビックリ!!
なんせ、ここ宮崎で「国指定」「県指定」「市指定」の様々な史跡に赴いて、
ガッカリすることが多かったものですから・・・。
門を入って正面の梅の花は、
満開とまではいきませんが、十分な美しさ!!
今まで「桜」を見るために出回ることはあっても、「梅」を見る目的のためだけに
ある地を訪れたことなどなかったので、大いに感動。
梅の木の右手には、
『国指定史跡 安井息軒旧宅』 の案内板。 (以下、原文)
この地は幕末の儒学者安井息軒の旧宅である。息軒は寛政十一年(一七九九)一月一日ここで生まれた。諱(いみな)は衝(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半久陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。学問所で子弟の教育にあたっていた父滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘痕面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。二十二才で大阪の篠崎小竹に師事、二十六才で江戸に出て昌平黌に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
二十九才で帰郷した息軒は、森鴎外著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校明教堂創建に携わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。天保二年(一八三一)、明教堂創建の実績が評価され、藩校振徳堂が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(現日南市飫肥)に転居する事となる。
天保七年(一八三六)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾を開き、長年に渡り書生を教授し、谷干城や陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥洲塙代官を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢等を理由に辞退したこともあった。この間「左伝輯釈」「海防私議」等多くの書を著している。
明治九年九月二十三日、七十七才で東京に没し、遺骸は家族や門人たちの手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。現在その墓は東京都の史跡に指定されている。この地は息軒等が飫肥に転居後居住者も幾度か替わったが、大正十二年から昭和四年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和五十四年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。平成四年度から五年度には国及び県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内のもとの位置に移動させるとともに、屋根を茅葺きにするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。
この案内板の横には、
『安井息軒先生 誕生地』 の大きな石碑。
そして、
旧宅。
近づいてみると、
「靴を脱いでお入りください」との案内。
あがるのは遠慮して、旧宅の側面に回ると、
お台所。 当時のものなのでしょうか・・・。
ぐるーーっと周って、旧宅の裏手に出ると、
2本の大木。 何の木だろう・・・。
そして、表に戻ると、
梅の木が咲き並んでいます。 見事!!
『孫と梅』の写真を何枚も何枚も撮った後に、この「安井息軒旧宅」の斜向かいにある
『きよたけ歴史館』 を見学。
歴史観の裏には、
『佐代夫人 供養塔』
そして、
『安井息軒廟』 と家内と孫。
さらに、
「梅」の咲く庭園。
梅の花を初めて見る孫。
恐る恐るじわ~~っと手を伸ばし、小さな人差し指で枝や花をつんつん。
小さな小さな人差し指と親指の2本で、花びらを一枚つまんだと思ったら、
急に驚くほどの素早い動きで、花びらをパクリ・・・。 食べてしまいました。
申し訳ございません・・・。(-_-;)
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
Leave a Reply