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我が店舗から車で約15分のところにある『宮崎城址』
宮崎県内で有名な城は「飫肥城」「佐土原城」「都於郡城」「高鍋城」「延岡城」など・・・。
『宮崎城』という城が存在していたことを知っている宮崎県人がどのくらいいるのだろう。
少なくとも、私の周囲の友人・知人たちの多くは知らなかったようです。
もしや、知らないのは私の友人・知人だけ・・・。(-_-;)
この城は、1335年頃に南朝方の「図師六郎入道慈円」によって築城されたらしい。
なんと、680年以上も前のこと。
それも、現在の宮崎市中心部付近に建っていたのです。
「宮崎城」に関しては、当ブログ『稲津掃部助重政・雪江の墓』でも記しています。
東軍方の「黒田如水」は伊東氏に西軍方を攻めるように命じ、稲津掃部助重政は、延岡藩「高橋氏」の「宮崎城」を攻め落とし、城主・権藤種盛を討ち取ります。しかしこの時、西軍方と思われていた高橋氏は、すでに東軍方に寝返っていたため、結果として同士討ちとなり大問題に発展。
黒田如水は、自分自身に疑いが向けられたため、その責任を伊東氏に押しつけ、
また、これまで稲津掃部助重政の重用を好ましく思わない藩の重臣・松浦久兵衛らが、この責任を稲津掃部助重政ひとりに負わせようとします。
当然ながら、納得できない稲津掃部助重政は清武城に立てこもります。
この時、稲津掃部助重政の妻・「雪江」も城内で運命を共にします。1602年、伊東氏の軍勢は城内に攻め込みます。
妻・雪江は、落城する清武城内で自害し、家臣・阿万三平が介錯。
稲津掃部助重政は、妻の自害の後に、最後まで付き従った家臣らとともに切腹。指示通りに動き、望まれる結果を出しながらも、「指示する側の不手際」によって責任を負わされ、またこれに加えて周囲からの「嫉妬の思い」が重なり無念のうちに命を落とした稲津掃部助重政と雪江。
重政29年、雪江15年という短い生涯でした。
そんな切ない話のきっかけの舞台となってしまったのが『宮崎城』でした。
今まで宮崎城址を訪れようと近くまで行くのですが、入口が分からずに断念して帰ること2回。
この日、「今日こそは!」と気合いを入れて宮崎城址を目指したところ、意外にもあっさりと入口発見。
今まで、分かりやすい案内柱を見落としていただけでした・・・。
『宮崎城趾』 の案内柱。
ここからずーーーっと奥に入ると、
『宮崎城跡入口(満願寺口)』 の案内板。
さらに奥へと進むと、
『宮崎城址』 の案内板。
どうでもいいことですが、ここまでの3つの案内板、「城趾」「城跡」「城址」と全て表記が違う。
いいのかな・・・。(-_-;)
そして、横には、
『宮崎城趾 案内板』 手書きのような縄張り図。 これはこれで趣がある。
これら案内板の横に、
『宮崎城跡』
さて、いざ登城開始。 ワクワクします・・・。(*^^*)
まずは平坦な道を進みます。
この辺りで「クモの巣」に気付かず、顔面・頭部はクモの巣だらけ・・・。
ひるまずさらに奥へ。
すると、緩やかな上り坂に。
たった一人での山城登城は、少々不安・・・。(-_-;)
ずんずん登って行くと、見えてきたのが、
『本丸城址←→目曳城址』 の案内板。
まずは、「本丸」から攻めます。
坂を登り続けると、急に道が細くなります。
この坂道、左側は崖。 こわいこわい・・・。
坂を上り切ると、
『本丸城跡』 に到着。
どうでもいいことですが、先ほどの案内板は「本丸城址」。ここは「本丸城跡」。
「統一せんねーーー」、と思いつつ、さらに奥へと続く道が。
奥へと進んでいくと、何とも不気味そうな道が続いています。
このほら穴のような道を少し下ると、一気に視界が開け、
おそらくここが『彦衛門城跡』かな・・・??。 何も案内板がないので自信はない。
ここから先も道が続いている・・・・・が、これ以上ひとりで奥へ進むのは何とも心細い。
「よし! 次回、助っ人Bo君を引き連れて・・・」と思い、
元の分かれ道まで引き返すことに。
そして、次は「目曳城址」を目指します。
険しい道を歩き進むこと数分。
おそらくここが、
『目曳城址』 かな? 案内板の地図によると、間違いなくこの辺り。
案内柱くらい立てておいていただければありがたいのだが・・・。(-_-;)
そして、ここからさらに道を進むと、もうひとつ城跡があるはず。
この山道にも気が倒れ込んできている。
「ここから先も、Bo君と一緒がいいかな~~~」などと気の弱いことを考えつつ歩いていると、
案内板!
『目曳城址←→服部城址・記念碑』
ということは、やはり先ほどの場所は「目曳城址」。
ここからは、さらなる急坂。 しかし、数分歩くと見えてきました。
『服部城跡』
ほんとにどうでもよいことだが、先ほどの案内板は「服部城址」で、ここは「服部城跡」
城跡には3つの石碑。
左の石碑は『宮崎城三百五十年祭記念碑』 右の石碑は『宮崎城四百年記念碑』
中央の石碑は、よく読めない・・・。
ちなみに、この場所はほぼ山の頂上付近。 眺めも素晴らしい。
遠くに「日向灘」が見えます。
さて、かれこれ1時間以上は歩いたでしょうか。 そろそろ下山。 今来た道を戻ります。
坂道を下っている途中、「異なる下りの道」を発見! そういえば、登城ルートはいくつかあったはず。
案内地図を見てみると、今見つけた下り道の方が早く麓まで下りることができそう。
「ならば!」と意気込んで新たなルートで下山を開始。
かなり歩き、そろそろ麓の登山口かな~~、と思っていた矢先、
この光景!!(-_-;)
「木が~~~、木が~~~」
乗り越えようと試みましたが、写真では分からないくらいにこの道の先の方まで倒木が続く・・・。
近道をして楽をしようと思った私がバカでした。
ふと、振り返ると、
今、下りてきた下り道。
そして今からは、「上り道」・・・。
結局、山を二度上ったような状況となり、へとへとになりながらようやく下山。
疲れはしましたが、「ザ・城跡」を堪能できた『宮崎城址』でした。
この日、宿題を残していますので、次はBo君とともに・・・。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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