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この日、予定していた用事が急遽キャンセルとなり、ポッカリと時間が空いてしまう。(-_-;)
よし! 霧島連山の麓、そして桜島からも程近い『国分城跡(舞鶴城屋形跡)』に行ってみよーー! と、思い立ち、すかさず「助っ人Bo君」に連絡してみることに。
フットワーク抜群のBo君は、
「では、現地で!!」
と、レスポンスも抜群!!
Bo君は、決してヒマなのではない・・。忙しい中、時間を割いて付き合ってくれているのだ・・と思う。
たぶん・・・。
ここ「国分城」は「島津義久」の居城。 桜島の浮かぶ錦江湾の北部沿岸付近に位置しています。
錦江湾の西側が「薩摩国」、東側が「大隅国」であり、この国分城は薩摩・大隅の境界にある絶好の
立地ということから、藩主が鹿児島城から国分城に移転する話が何度も持ち上がった、とのこと。
国分城の背後の山には「隼人城」。 今では、城山公園となって整備されています。
普段は、天守閣の無い屋形造りの国分城で政務にあたり、敵との戦いの際には隼人城に詰めることを
想定していたそうです。
国分城跡には駐車場が無いため、近くの空き地に車を止めさせていただき見学開始。
このように「水堀」と「石垣」が確認できます。
向こうの方に石碑が見えるので近づいてみると、
『舞鶴城屋形跡』 の立派な石碑。
そして、すぐ横には、
「朱門」と「石橋」
『朱門』 の石碑。 (以下、原文)
舞鶴城内陣の門であったものを、市内重久の細山田家の祖先が領主島津義久公より拝領したものと伝えられているが、記録もなくはっきりしたことは分からない。昭和三十八年、細山田家から大隅国分寺跡に移転保存されたが、台風のため倒壊した。昭和五十年、国分市の市制二十周年事業の一環として、朱門を修復し、ゆかりの舞鶴城に復元した。
この「石橋」、なかなかの雰囲気を醸し出していますが、
現存の遺構なのかなぁ~~~、などと思いながら渡ったところに、
有名な?? 朱門。
この「朱門」の横に案内板。
『舞鶴城と朱門』 (以下、原文)
関ケ原の戦い(一六〇〇)の翌年、隣国の脅威を感じた島津義久は、国分をそれに対抗する地として、舞鶴城の築城に取り掛かった。慶長九年(一六〇四)、舞鶴城は南麓に広がる城下町を併せて完成し、義久は十年にわたって住んでいた富隈城(隼人)から移居し、慶長十六年(一六一一)に死去するまでの七年間在城した。舞鶴城は天守閣を持たない「屋形造り」で、現在は南側に石垣と堀の一部を残すのみである。
あ、、、石橋は現存じゃない・・・。(-_-;)
朱門は、当初舞鶴城内にあったものを移築したと言われているが、その根拠は定かではない。門が「朱」で塗布されていることや、門の形状も比較的小さいことから、舞鶴城内にあったとすれば、奥向きに通じる門ではなかったか、と推察される。
あ、、、根拠ないんだ・・・。(-_-;)
朱門の裏側に回ってみて、写真を一枚。
そして、朱門背後の金網の隙間から、
「国分城跡(現国分小学校)」の写真を一枚。
朱門から下りて、周囲を散策。
『島津義久公 伊呂波歌』 の石碑。
『梅と松と石垣とお堀』
国分城跡周辺を十分に散策した後、車で数分移動。
昨日まで雪が降っていた桜島を見ることに。
『桜島と錦江湾』
桜島の頂上付近に、うっすらと雪が覆っているのが見えます。
この桜島を見ている場所から真後ろに振り返ると、遠くに見えるのが、
『霧島連山』
韓国岳、新燃岳、高千穂峰などの山々。
ただ、どの山がどれなのかは分からない・・・。(-_-;)
1年にほんの数度しか見ることができない雪景色。
ラッキーでした。
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