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この日最後の6城目となる『八代城跡』
少々バテ気味。(-_-;)
毎度のことながら、強行軍のスケジュールに反省。
ここ「八代城跡」のある肥後国は、元和の一国一城令において本城の「熊本城」と支城の「麦島城」
の『一国二城』の体制を許可されたという珍しい例のある国。
その後、麦島城は地震により倒壊するものの、幕府より新たな城の築城を許可され建てられたのが八代城。
現在でも各所に遺構が残っており、石垣、天守台、内堀、三の丸永蔵門、番所、本丸欄干橋門(高麗門)
などが現存しているらしい。
では、本日最後の登城開始。
八代城跡に徐々に近づくにつれ、車内からすぐに目に入ったのがこの風景。
広大な水堀に架かる橋、そして左右に延びる石垣。
この橋の入口に停車し、
橋を渡ってみます。 橋の名は「八代宮神橋」
橋の上から右に目を移すと見える
石垣。
橋を渡り切ると、右手に、
『国指定史跡 八代城跡』 の石碑と案内板。
『国指定史跡「八城城跡群 古麓城跡 麦島城跡 八代城跡」のうち八代城跡』
(以下、原文)
元和元年(1615)に一国一城令が出された後も、肥後国熊本藩は熊本城と麦島城(八代市古城町)の一国二城体制が特別に認められていましたが、同5年(1619)の大地震によって麦島城は崩壊しました。熊本藩主の加藤忠広は幕府の許可を得て、城代の加藤正方に命じて徳渕の津の北側に城を築くこととし、同8年(1622)に竣工しました。これが現在の八代城で、明治維新まで肥後国の一国二城体制が続きました。
寛永九年(1632)、豊前小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父・細川忠興(=三斎)が八代城に入城しました。忠興は八代城の整備を行い、北の丸の隠居所には名木臥龍梅を植え、茶庭を設けました。八代城本丸の北西隅には外観4層、地下1階の大天守が作られ、渡り廊下を通して2層2階の小天守とつながっていました。大天守は、寛文12年(1672)、落雷によって焼失しました。現在、相撲場となっている場所の近くには、かつて能舞台がありました。本丸内には枯山水の庭園が設けられており、現在もその一部を見ることができます。また、発掘調査で見つかった八代城時代の井戸が保存されています。
忠興が没した後、1646年には、藩主細川光尚は細川家の筆頭家老でかつ将軍直臣の身分を持つ松井興長に八代城を預けました。これ以後、代々松井氏が八代城を治め、八代の発展に尽くしました。明治3年(1870)に八代城が廃城となり、同16年(1883)には八代町民の願いが叶い、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子、懐良親王の顕彰のために本丸内に八代宮が創建されました。現在、八代城跡は八代市の中心的な歴史公園で、また桜の名所として親しまれています。
さて、車を路駐していた私たちは、駐車場に移動。
そして、本丸東側の
「欄干橋」 を渡ると、
「高麗門跡」
ここから本丸北側に歩いて行くと石段があり、その石段を上ると、
「九間櫓跡」 礎石が残っているのが見えます。
そして、くるっと真後ろに振り返ると、
この風景。
このまま真っすぐ奥(東)まで歩き進むと、
「三階櫓跡」
この櫓跡からも、
水堀を眺めることができます。
さて、一度櫓跡を下り、再度、城内北面に移動すると、
このような石垣、石段が見えてきます。
この石段を上がると、
「唐人櫓跡」
さらに、西側に進み、
西面にある石段を上がると、
「小天守跡」
小天守跡を北に進み、
この入口から入ると、
「大天守跡」
大天守跡からも、
美しい水堀を眺めた後に、
大天守跡を下りて一気に南面まで向かうと、
「相撲場」
相撲場の脇から石垣の上に上ると、
「宝形櫓跡」
と、
「舞台脇の櫓跡」
というふうに、かなりの駆け足で見学。
なんせ、すでにバテバテな状況の中、広大な八代城跡と数多くの櫓跡を
ゆっくりとじっくりと見学する気力も湧いてこなかったのが事実。
また、日を変えて訪城するつもりです。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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