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本日、我が家のある宮崎市から約2時間ほど南下。
国指定史跡である『志布志城』に向かいます。
この『志布志城』
鹿児島県南東部、志布志湾の海岸近くにあり、港を有し貿易も盛んであったことから南九州の諸勢力による争奪戦が絶えず、とても複雑な歴史を歩んでいる城です。
1300年代半ば、「肝付氏」「楡井氏」「畠山氏」による志布志での勢力争いの中、畠山氏が志布志城を獲得します。そして、さらに西へと勢力を拡大する畠山氏。
大隅まで手を伸ばす畠山氏に対し、「島津氏」は黙ってはいません。
島津氏は、分家である「新納氏」を支援することで畠山氏を打ち破り敗走させ、
それ以降の長い年月を新納氏が志布志を治めることになります。
ようするに、島津氏の所領になったということです。
(志布志城には隣り合わせるようにして「内城」と「松尾城」があるのですが、
実はこの時、内城は畠山氏、松尾城は新納氏が治めていたそうです。)
1400年代半ばには、日向・伊東氏が幾度となく志布志を攻めます。
志布志城は九州南東部での島津氏の前線基地となっていました。
1500年代半ば、島津氏本家での後継者争いが勃発。
薩州島津家と伊作島津家の間で壮絶な戦いが始まります。
薩州方の「豊洲島津氏」は、「肝付氏」「北郷氏」を従え、当時志布志を治めていた伊作方の新納氏を攻め落とし、志布志を奪い取ることに成功。
しかしそれも束の間、肝付氏は島津氏に対して対抗を始めます。
肝付氏は伊東氏と共に島津氏を攻め、志布志を奪還。
しかししかし、それも束の間、今度は伊東氏が肝付氏を攻め、肝付氏は勢力を弱めてしまい、同時に島津氏による反抗を受け、本城高山城を落とされ島津氏に降伏。志布志は再度、島津氏が治めることになり、その支配は安定するのです。
こうなると、誰が味方で誰が敵なのか分かりません・・・。
スゴイ時代です・・・。(-_-;)
この案内板を見ても分かるように、内城のすぐ西側には松尾城があります。
それでは、まずは「内城跡」に登ってみます。
内城跡の入り口に向かっている途中、数多くの民家が建ち並んでいるのですが、
歩きながらふと民家の表札を見ると「肝付」さんでした。
なんとなくうれしい。(*^^*)
『志布志城(内城)跡入口』
この入口から入り、奥へと歩き進めると、突き当りに、
『国指定史跡 志布志城(内城)跡』 (以下、原文)
城の変遷
内城は、志布志城(内城・松尾城・高城・新城)の主体部であり、肝付氏の没落による天正5年(1577)の島津氏初代地頭、鎌田出雲守政近まで、およそ400年間の豪族の興亡の歴史を繰り返している。
築城の歴史
志布志城の最初の築城年代はわからない。南北朝期までは、本丸と矢倉場といわれる曲輪のみであり、新納氏の時代に中野久尾・大野久尾と拡大し、内城本丸の山下に居館を置いた。戦国期に現在見られるような直線連郭型式の山城となり常に当地方の支配者の居城であったが、徳川幕府の一国一城制によって廃城となり今日に至っている。
立地と環境
内城は北東から南西に延びた細長い丘陵の先端部に立地しており、北東部のみ台地に繋がっているので、ここに深い堀切を設け、大地と丘陵とを切り離している。そして細長い丘陵に5つの曲輪を直線的に並べ、各曲輪は互いに空堀によって区切られている。
構成と性格
志布志城には志布志城五口と称して大手口・西谷口・沢目記口・小渕口・向川原口の5つの入口があるが、この他に留城戸一つがある。空堀は、丘陵を横断する5つの大きなものと、これに直角に交わり丘陵と並行して長く続く2つとから成っている。曲輪は、深堀で仕切った上、さらに浅堀で2つに分割し、浅堀の中央付近で両側の曲輪の虎口に繋がるというのが基本である。本丸(曲輪3)の土塁は大きく、北の隅は大きく張り出し、高さ4メートルの櫓台となっている。中野久尾の両曲輪とも二段で、曲輪5(A)の虎口は中仕切りの堀底から登り、同(B)は四面とも土塁で囲まれていて、南西のみ空き、坂虎口となっており、これを守る土塁が張りだしている。ここが当城で最も手がこんでいる。大野久尾の曲輪は農道で中仕切りの空堀が埋没している。
現況
中世の新納氏200年間の居城の守護神である三宝荒神が本丸跡に、また、新納家始祖新納時久公の墓が矢倉場の旧新納家墓地跡に残っている。この内城は、空堀の規模が大きく縄張りも明快で、港・河口・街道に望んで望遠観察にも適している。また、中世城下町の存在も予想されており、伝承にも恵まれた、南九州でも有数の山城である。
では、登城を開始します。
案内板から左方向に入り、
民家の前の小道を奥に進んでいきます。
数分歩いたところに、
『志布志城(本丸)登口跡』 の案内柱。
これは、なかなか大変そうな急坂。嫌な予感を感じつつ登り始めます。
さらに続く上り坂・・・。(-_-;)
心臓が苦しい・・・。
まだまだ続く上り坂・・・。
汗のかき方がハンパではない・・・。(-_-;)
そして、ようやく、
『本丸』跡に到着。
着いた途端に座り込む私。
あまりにもしんどくて、本丸跡を見ても感慨も何もない状態。
この時ほど思ったことはありません。
「山城の城址巡りは、一人で行くと危ないなーー」って。
「もしここで心不全になって倒れても、誰も見つけてくれないだろうなー」って。
帰りの下り道は、ゆっくりゆっくりと帰りました。
最後に、志布志城(内城)の遠景写真を一枚!
現時点では、まだ疲労が残っているままですが、
歩いて数分の『松尾城跡』に向かってみます。
登る体力があるかどうかは分かりませんが・・・。(-_-;)
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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