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「志布志城」を登城し疲れ果てていた私は、帰りの道を地図で調べていたところ、車で約20分のすぐ近くに、聞きなれない『大隅松山城』という城を発見!
帰りの道すがら、ちょっと立ち寄ってみることに。
それにしても、『松山城』って全国にたくさんあるんですねーー。
私が知っているだけでも、「伊予の松山城」「備中の松山城」「豊前の松山城」。調べてみるとその他に「宮城県」「福島県」「山形県」「埼玉県」「千葉県」
「島根県」にも松山城がありました。共通の名前の由来があるんでしょうかね??
そして、ここ『大隅 松山城』。
「城山総合公園」としてきれいに整備されており、運動場や体育館がある辺りが「本丸跡」だったらしいです。そして、この
案内板のある場所は、
『二の丸跡』 とのこと。
この城も近くの城と同様に、島津氏と肝付氏などの争奪戦になっていたようです。
『松山城址(二ノ丸跡)』 (以下、原文)
松山城は文治四年(一一八八年)平清盛の弟頼盛の孫である隠岐守重頼が松山に来て松山城を築いたという記録が残っています。
城が築かれた後、四年経った建久三年(一一九二年)には、源頼朝が鎌倉幕府を開きました。このような時代に、城を築いた重頼はいつ頃まで松山を治めたのか分かりませんが、あまり長くなかったといわれています。
その後、戦国時代になると島津氏や肝付氏などの勢力争いのため、松山城は度々激しい戦乱の舞台となり、何度か落城したようです。最終的には島津氏の直轄地となり、島津家の家臣が地頭となり松山を治めました。
松山城は本丸、二ノ丸、五兵衛城、八幡城の四つに分れていますが、現在そのままの状態で残っているのは二ノ丸部分だけです。
「二の丸跡」に登る途中に、
神社があります。
そして、さらに登ると、
ここが「二の丸跡」。
『「神州不滅」の碑』
太平洋戦争末期、第八十六師団積兵団は、米軍の志布志湾上陸に備えて、この地を遊撃最前線基地として陣地を構築したが、昭和二十年八月十五日終戦となった。
当時の芳仲師団長は、戦争には負けても日本(神州)は亡びないとして、昭和二十年の初秋、この丘に軍旗を焼き「神州不滅」の碑石を将兵相携えて建立したものである。
この二の丸跡は、春には桜が満開となり多くの市民が集うそうです。また、本丸跡には運動場や体育館があり、二の丸跡を下るときれいな公園もあります。広大な駐車場もあるため、休日には多くの人が集まる場所になっているようです。
さびれた城山公園も多い中、このようなほのぼのとした美しい城山公園を見ると、なぜかほっとする気持ちになります。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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