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大通り沿いに「小林城跡」と記された立て杭を見つけたものの全く入り口が分かりません。立て杭のすぐ近くで、地元の中学生らしき少年が座って携帯電話をいじっていましたので、私は運転席から顔を出して、
「ぼく〜〜! この近くに小林城ってあるやろ? どこが入り口なん?」
と聞いてみたところ、スクッと立ち上がり直立不動の姿勢で、
「すいません、知りません。すいません、聞いたこともありません。」
と、顔を引きつらせて答えてくれました。
私が怖いおじさんに見えたのでしょうか・・・(・_・;
狭くて急な坂道を、思い切って一か八か上ったところ、運良く案内板を発見! 『小林城の由来』を説明しています。
伊東義祐により築かれた小林城は「伊東氏48城」のひとつ。ほんの10kmほど西にある島津義弘の居城飯野城への備えであり、また、島津氏を攻めるための前線としての城でもありました。案内板の説明にもあるように、伊東・島津 両氏での度重なる戦いの場となっています。木崎原の戦いの発端となった「加久藤城攻め」の際には、この小林城(三ツ山城)から3,000余人が出陣しています。
それでは、登城開始します!
歩きやすい様に、道は整備されています。そして、
「空堀跡」の案内。 矢印に従いさらに奥へ進むと、
「大手門跡」の案内。 徐々に道が険しくなってきます。さらに奥へ!
すると、開けた場所にたどり着きます。そして、
「井戸跡」の案内。 この辺りが本丸跡なのかな〜、と思っていたところ、
「本丸跡」の案内。
この本丸跡に至るまで、小高い台地の周囲をぐるりと回りながら山頂まで登ってきました。城山公園として残っている小林城跡(三ツ山城)ですが、あまりにも公園らしさの欠片もなく、これでは地元の中学生も、城跡の入り口にいながらも「知りません。聞いたこともありません。」って言うわけだ・・・と 感じながら小林城跡(三ツ山城)をあとにします。
本日、「飯野城」から始まり、「加久藤城」「木崎原古戦場跡」、そして
「小林城」と巡り、伊東氏・島津氏の攻防の歴史の一端を垣間見ることができ充実した一日でした。
そして、このハードな一日に付き合ってくれた友にも感謝です。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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