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三の丸跡から二の丸跡へ登城を始めます。
登城口は、この『中の御門』から。
中の御門から入り、その先は、
立派な枡形の虎口。 見事です。
歩を進め、
この階段を上ったところが、
『二の丸跡』
今では杉の大木が立ち並んでいますが、当時はここ二の丸に御殿を構えていたようです。
二の丸跡の西側まで進み、二の丸から三の丸を見下ろしたのが、
この風景。
そして、二の丸跡の最奥まで進むと、
二の丸跡から本丸跡への石段。
この石段を上ると、
ここが『本丸跡』
この本丸跡の奥(写真中央)に屋根付きのベンチがあります。
よーーーく目を凝らして見てみると、ベンチの上に寝そべっている若いカップルがいちゃいちゃ。
聖なる本丸でいちゃいちゃ・・・。(-_-;)
邪魔にならないように本丸跡内をくまなく散策。
本丸跡中央部にいくつかの礎石が残っています。
この礎石群は、板葺きで4間四方の二階建ての護摩堂跡だそうです。
さて、若いカップルがチラチラと私を見る視線も気になるので下りることにします。
もう一度、三の丸跡まで下りて、城跡北側に向かいます。 三の丸から城下を見下ろすと
城跡の北面に『球磨川』が接しているのが確認できます。
「日本三大急流」のひとつ『球磨川』。 船で急流を下る「球磨川下り」は有名ですね。
そして、三の丸から城跡北側に下りると、
この「御下門」に出てきます。
御下門から川沿いに西へ歩いて行くと、
『史跡 人吉城跡』 の石碑。
石碑の横には、
『堀合門』
そして、この門の横にようやく見つけた案内板。
『史跡 人吉城跡』 (以下、原文)
人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城とも言います。人吉城が史料に初めて出るのは、題詠年(1524)のことです。この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、素掘りの空堀や堀切によって守られていた城でした。室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡のみを支配することになり、以後は石高22,165石の人吉藩として明治4年(1871)の廃藩置県まで存続しました。
人吉城が石垣造りの近世城として整備されるのは天正17年(1589)からで、何度か中断をしながらも、51年後の寛永16年(1639)に現在見られる石垣が完成しています。球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です。大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200メートルもあり、広大です。本丸には天守閣は建てられずに二階建の護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。水の手門近くの『武者返し』と呼ばれる石垣は、幕末に導入された欧州の築城技術である槹出工法で築かれたものとして有名です。城内の建造物は、廃藩置県の後に取りこわされて残っていませんが、保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えています。
そして、これが説明文中にもある
『武者返し』
この『武者返し』のある城壁は、ここ人吉城のほか日本国内では「函館・五稜郭」と「鶴岡城」のみ。
もともとは、1853年に「品川台場」で初めて導入され、その後に「五稜郭」「龍岡城」等の西洋式城郭で採用。
旧来の城郭で採用されたのは「人吉城」のみで非常に珍しいものです。
さて、ここからは、
城の北面にある球磨川に移動。
人吉城北面の石垣と球磨川は接しており、まさに『自然の堀』として城を守っています。
駐車場に戻る道すがら、
この長い石垣を眺めながら、この規模の石垣が現在に至るまで残っていることに感動。
さて、そろそろ人吉城をあとにして、愛しい孫の待つ我が家へ帰ることにします。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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