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「臼杵城跡」から車で南下すること約25km。
『佐伯城跡』に到着。「さえき」ではなく「さいき」と読みます。
ここ佐伯城は、関ケ原の戦いの後、日隈城の城主であった「毛利高政」が佐伯に移封され築城。
この毛利高政。「毛利」と言っても「安芸国・毛利氏」の血筋ではありません。
もともとの姓は「森」。
尾張国の生まれ。
高政の父・高次は「織田信長」に仕え、高政自身は「羽柴秀吉」に仕えます。
秀吉に気に入られた高政は、秀吉の『中国攻め』に従軍。
そして、京都では「本能寺の変」が起きます。
備中高松城の戦いにあった秀吉は、即座に毛利氏との講和を取りまとめ、『中国大返し』を決行。
高政は、講和の際の人質として毛利家に残ることになったのです。
その後、高政は「毛利輝元」に気に入られ、高政一族は『毛利氏』を名乗るようになったそうです。
さて、これが『三の丸櫓門』。
なんと、現存です。
私の孫娘を抱いて仁王立ちする友人B。
この場から、右に目を移すと、
こちらにも石垣の上に櫓が見えます。「城山 登り口」の案内板も。
三の丸櫓門から入ると、すぐ右手に、
このような石碑と案内板。
『佐伯文庫跡』 (以下、原文)
佐伯藩八代藩主高標は学問を奨励し、安永六年(一七七七)城内に藩校「四教堂」を創立、
天明元年(一七八一)三の丸に「佐伯文庫」を創設し、書物奉行を任命した。高標の収集した蔵書は八万巻にもおよび、大部分は中国(宗・元・明・清)の本であり、
分野は儒教の四書五教をはじめ歴史書・詩文・仏典・医学書・数学書・天文・生物学と
多岐にわたる。またオランダ語やフランス語で書かれた植物書や医学書・世界地図など
西洋の本も含まれていた。文政七年(一八二四)十代高翰のとき二万巻余りが幕府に献本され、現在は、宮内庁書陵部・
国立公文書館・内閣文庫・国立国会図書館に保管されている。佐伯に残された書物は
明治以降に散逸し、毛利家から寄贈された二千九百余冊が佐伯市に保管されている。
城山の登り口の
大きな鳥居をくぐり抜け、
坂道を上り進めると見えてきたのが、
『登城の道 登り』 の案内柱。 険しそうな山道が見え隠れしています。
登城入口の左には案内板。
頂上への4つのルートが記されています。
この日は、頂上まで上るだけの時間がありません。
少しだけ山道を上ってみます。
この辺りで山を下りることにしますが、この山を頂上まで上れば、
とても立派な本丸跡の石垣が残っているらしい。(-_-;)
次の機会には必ず・・・。
せめて、
佐伯城跡の遠景だけでも写真に収め、駐車場に戻ることに。
三の丸櫓門の近くに見えていたのが、
この櫓。
よーーーく近づいて見てみると、
『御下櫓』 公衆お手洗い・・・。(-_-;)
では、帰ります。
宮崎に戻ってから、山頂の佐伯城本丸跡の写真を見ましたが、まぁ~、立派なこと。
佐伯城跡に大きな大きな宿題を残したことを痛感。
必ずや再訪を!!
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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