高城城址〔伊東氏48城 ⑧ 〜 宮崎県児湯郡木城町〕

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「伊東氏48城」のなかでも、落城しなかった堅城、として語り継がれているのが
この日訪れた『高城城』。大友宗麟の大軍、そして豊臣秀吉の大軍を、少ない城兵で守り抜いたことで知られる、まさに「難攻不落の城」

歴史は古く、1335年に島津忠宗の四男・時久が、足利尊氏より新納院の地頭職を
任命された際に築いた城であり、この時から「新納時久」と名乗っています。

その後、「畠山氏」「土持氏」と城主が変わり、戦国時代に入ると、土持氏は日向での勢力拡大を進めていた都於郡の伊東祐堯との「小浪川の戦い」に敗れ滅亡。
この土持氏の敗戦によって、10の城が伊東氏の所領となり、「高城城」「財部城」「日知屋城」などがのちの「伊東氏48城」となるわけです。

その後、伊東氏は、1572年の「木崎原の戦い」で島津氏に大敗し、勢力衰退の一途を辿ります。伊東家内での反乱や寝返りもあり、戦わずして48城は次々と陥落。
世に言う『伊東崩れ』。そしてついに、高城城も島津氏の所領に。

1578年、伊東氏からの要請で大友宗麟は大軍を率いて高城城を包囲します。
いわゆる『耳川の戦い』です。
その時、高城城を守る島津兵はわずか500人程度。すぐに、島津義久の援軍が高城城に駆けつけ「高城川(小丸川)」で大友軍と激突。そして、耳川まで大友軍を追い詰めて大勝しています。

1587年には、豊臣秀吉の九州征伐により15~20万の大軍が攻めてきます。
高城城では、わずか1500の兵で籠城し、それでも耐え続けます。
結局は「根白坂の戦い」で、島津義久が豊臣秀長に敗れて撤退した後に降伏。
その降伏を受けて、高城城を開城することになります。高城城は城での戦いによって落城したわけではありませんでした。まさに『難攻不落の城』だったわけです。

ということで、なかなか入口が分からずに右往左往したものの、ようやく駐車場に到着。そして、すぐに案内板を発見!

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案内板によると、本丸にたどり着くまでに、空堀が「7つ」あるようで、これがこの高城城を攻めることを困難にしていたのでしょう。

では、早速、「本丸跡」に向かいます。
歩いていると、大木の陰から、

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天守が見えてきました。

本丸跡に入ります。かなり広い本丸跡。そして、

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緑の芝生が美しい。

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そして、近づいてみると、

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何とも趣のある天守。

天守の中に入ると、

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このような階段があり、上に上がると、

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城下の小丸川(高城川)。壮絶な戦いが繰り広げられた「耳川の戦い」の合戦場跡が一望できます。

天守を下り、本丸跡を奥まで歩き進めると、

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お地蔵様の並ぶ道。

そして、

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わずかながらの石垣。当時のものでしょうか・・・。

再度、駐車場まで戻り、

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この『第一空堀跡』 から

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階段を下りてみます。すると、

この光景!!

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写真では伝わりづらいのですが、これは確かに攻めづらい城です。少人数でも攻め落とされない難攻不落の城と言われる理由がわかるような気がします。

この高城城の近くには「耳川の戦い」での古戦場跡があるようですので、次の機会に訪れる予定です。 本日はこれまで!

それにしても、豊臣秀吉の九州征伐。
九州にとっては、まさに脅威。(-_-;)

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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