御船城跡〔阿蘇氏の名軍師・甲斐宗運 居城~熊本県上益城郡御船町〕

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この日は1日かけて熊本遠征。 朝7時に出発し「助っ人Bo君」を迎えに!
約2時間九州自動車道を走り、1城目の『御船城跡』に到着。

この「御船城跡」は「熊本県上益城郡御船町」にあります。
実は、熊本地震で最も被害が大きかった「熊本県上益城郡益城町」の隣の町。

九州自動車道・御船インターを下り、御船城跡までの約15分の間だけでも、
斜めに立っている電柱など生々しい光景が続いていました。
テレビではよく見ていたものの、いざ目の当たりにすると心はどんよりと曇ってしまいます。

御船城跡に着く直前、小さなかわいい小学生たちが手をつないで歩いているのを目にします。
御船城跡の麓、御船小学校の子供たちで、笑顔いっぱい、きゃっきゃっと言いながら行進中。
そんな子供たちの笑顔を見て、心が晴れてくる私・・・。 何とも情けない・・・。(-_-;)

あらためて、被災された方々へのお見舞いの気持ちと、一刻も早い復興を心より祈る次第です。

 

さて、この日1城目の御船城は「甲斐宗運」の居城、、、、、らしい。(-_-;)
甲斐宗運の名前だけは知っていても詳しい歴史は分からない。
なので、ウィキってみるとなるほど興味深い武将。(以下、参考ウィキペディアで一部引用)

★1541年 阿蘇氏の重臣・甲斐宗運は、 島津氏に内通して阿蘇氏に反旗を翻した御船城主・御船房行を討伐。その功によって御船城主に任じられた。《木倉原の戦い》

★宗運は、外には大友氏に主従し、肥後では相良氏名和氏との同盟を維持することで阿蘇氏の存続を保っていた。1551年 大友義鎮が肥後鎮定のために出兵した際、阿蘇氏はこれに従っている。

★1562年 島津氏が肥後国に入り相良氏と争う。1578年 大友氏が耳川の戦いで島津氏に敗れて肥後への影響力が低下。すると、肥後の国人衆の多くは島津氏龍造寺氏についたが、宗運は大友氏との同盟を頑なに維持しようとする。

★1580年 龍造寺氏に従属した隈部親永、合志親為、河尻氏、鹿子木氏と、島津氏に従属した名和顕孝、城親賢による肥後国人衆の連合軍が、阿蘇氏打倒の兵を挙げた。宗運は嫡男親英と兵8,000を率いて迎え撃つ。間者の報告で、降雨により油断した隈部勢が酒盛りをしていた事を知ると急襲。隈部勢を敗走させる。この功を賞して大友義統は飽田郡池上村を宗運に与えた。《且過瀬の戦い》

★この頃、黒仁田豊後守が阿蘇氏を裏切って伊東氏に内通。黒仁田は親英の舅であったが、宗運は主君への裏切りを許さず、嫁一人を除き、黒仁田の一族郎党を皆殺しに。

★また、阿蘇家内の「井芹党」と号する与力衆が島津氏に与して阿蘇氏に反旗を翻す企みを聞くと、党派には宗運の息子達もいたが次男を討ち、逃げた三男を江俵山に追って討ち、四男は日向に逃亡。嫡男の宗立も龍造寺氏に与する計画を持っていたのでこれを追討して捕虜とした。

★1581年 相良氏が島津氏の軍門に下り、島津氏はすぐさま当主・相良義陽に御船城攻略を命じる。義陽は宗運と誓詞を交わした盟友である。義陽は阿蘇領に侵攻したが、宗運の軍勢は相良軍を撃破。《響野原の戦い》 義陽は島津氏と宗運との間で板挟みとなり、わざと敗北を招く布陣をしたとされ、義陽の首を見た宗運は落涙したといわれる。

★以降宗運は外交的駆け引きにより龍造寺・島津の二大勢力の間で阿蘇氏の命脈を保つことに腐心した。

★1583年 に病死。享年75歳。宗運の孫娘に毒殺されたという説もある。なお、戦国の終わりを察知した宗運は「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、矢部(阿蘇氏の本拠地)に篭って守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していた。

宗運は、主家思いの男気あふれる名軍師だったようですね。

さて、では登城開始。

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この緩やかな坂を進むと、

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見えてくるのが、

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『宗運門』  模擬です。 ここ「御船城跡」は、わずかな土塁が残るだけでほぼ遺構はない、とのこと。

門をくぐると、

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綺麗に整備された城山公園。

散策してみると、至る所に地震の影響が垣間見えます。

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このように、大きくずれている石碑。

奥に進むと、

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完全に分断されている割れ落ちた石碑。

この石碑の土台も、

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割れています。 凄まじい光景でした・・・。

ふと、この石碑の横に目を移すと、

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『太宰府天満宮 飛来の梅』

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力強く咲いている梅の花。

梅の木の奥には「甲斐宗運」を合祀した『城山天満宮』。 

お参りした後に、ここをあとにしました。

入口に戻って、あらためて入口脇の石碑を見たところ、

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「この鳥居は紀元二千六百年を記念して御船町二丁目滝下松蔵氏が若宮神社屯宮に奉納されたものを昭和四十九年三月御船町一丁目岩尾亨氏の御芳志によこの地に移転再建されたものです」

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この場所に鳥居が立ってたんですねーー。

これが、

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鳥居の柱の根元。

最後の最後に、さらに凄まじいものを目にしました。

重ね重ねになりますが、一刻も早い復興を心よりお祈りいたします。

 

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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