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本日、午前9時出発。 1時間半かけてようやく宮崎県最西部・鹿児島県との県境にある「えびの市」に到着。私が北九州から宮崎に移り住んで7年目に入るのですが、宮崎に来たからには宮崎のことを知ろうと思い、宮崎(日向国)のことを調べると必ず出てくるのが『木崎原の戦い』と、この戦いの際の島津氏の居城『飯野城』と『加久藤城』。
飯野城の歴史は古く、永暦元年(1160年)に築城と言われているらしいのですが、やはり有名なのは、島津貴久の二男、「関ケ原合戦の島津の退き口」で名をはせた『島津義弘』です。30歳から56歳までの26年間、この飯野城を居城として数多くの合戦場へと出陣しています。
まずは、「飯野城跡 縄張り図」の案内板を発見!
実は、この案内板にたどり着くまでに、『不審な人を見かけたら連絡してください。』との数多くの立て看板を見ていたため、ドキドキしながら背筋を正し、「私は怪しい者ではありません。」という雰囲気をかもし出しながら看板を凝視。
そして、いざ飯野城へ登城!
大手門をくぐり抜け数分。次なる案内を見つけます。
まずは「二の丸跡」から散策。
遺構らしきものは見つかりません。
先ほどの案内の横に、このような看板。
「島津義弘、飯野城入府時に植られたと思われる約430年前の杉」
立派な杉です。
そして、「本丸跡」へと足を進めます。
本丸跡に到着。奥に「石碑」と「案内板」。遺構らしきものは確認できず。
石碑には、飯野城の別名で記されています。『亀城址』
そして、案内板。『飯野城 と島津義弘』
ここに記されているように、南九州の関ケ原の戦いと言われている『木崎原合戦』にて、島津義弘は日向・伊東氏に大勝しています。 しかも、有力な説によると、伊東氏軍勢「3,000人」に対して、島津氏軍勢「300人」。
7年足らずという短い期間ですが、宮崎に住んでいる私はやはり宮崎県人目線で見てしまいますので何とも悔しい限りなのです。(誤解の無いようにひと言。あくまでも私は、歴史的観点から見たときに薩摩藩は大好きですから!!)
このあと、『加久藤城』に行き、さらに『木崎原古戦場』に向かうことにします。
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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