高鍋城址〔伊東氏48城 ⑦ ~ 宮崎県児湯郡高鍋町〕

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「伊東氏48城」制覇を目指し、こつこつと家の近くの城から訪城を続けています。この日、訪れたのも伊東氏48城の一つである『高鍋城』
実は2回目の訪城になります。

高鍋城の歴史は古く、平安時代後期に「財部土持氏」がこの地域を治め居城としており、その当時は「財部城(たからべじょう)」と呼ばれていました。
以後、約300年近く、土持氏の居城としての時代が続きます。

戦国時代に入り、土持氏は、日向での勢力拡大を進めていた都於郡の伊東祐堯との「小浪川の戦い」に敗れ滅亡。その結果、財部城は伊東氏の所領となります。
この土持氏の敗戦によって、「財部城」だけでなく「日知屋城」「高城城」なども
伊東氏の所領となり、これらの城がのちの「伊東氏48城」となるわけです。

その後、伊東氏は、1572年の「木崎原の戦い」で島津氏に大敗し、勢力衰退の一途を辿ります。伊東家内での反乱や寝返りもあり、戦わずして48城は次々と陥落。
世に言う『伊東崩れ』。そしてついに、財部城も島津氏の所領に。

島津氏に敗れた伊東氏は、大友氏を頼り豊後へ。俗にいう「豊後落ち」です。
伊東氏からの懇願で、大友氏は日向攻めを引き受け南下し島津氏と激突。
これが「耳川の戦い」
この戦いの際に、島津軍・島津義弘は「財部城」に本陣を置いて勝利しています。

日向を支配した島津氏は、その後、九州の大半を手中に収め「九州統一」まであと一歩となりますが、ここから豊臣秀吉の九州征伐が始まります。

各地での戦いの末、島津氏は豊臣軍に屈し、島津氏は財部城からも撤退。
新たに筑前国から秋月氏が移封となり、財部城を治めることになります。

そして、財部藩3代藩主・秋月種信が「財部」から「高鍋」と地名を改称。
「高鍋城」となり、秋月氏10代に渡って、高鍋藩・秋月氏2万7千石の居城として
明治の廃藩に至るまで続いた、とのこと。

ここ高鍋城にも、長い長い歴史があるんだなぁ・・・。としみじみ思いつつ、
いざ、登城開始!
まずは、「三の丸」から「二の丸」へと上がる際の、

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『岩坂門跡』

「三の丸跡」は、今現在、駐車場として整備されています。
「二の丸跡」に上ると、

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『舞鶴神社』

鳥居の右横に「説明板」が立っているのが分かりますでしょうか?
これ、神社に関する説明ではなく『ポケモンGOをしている方』への案内板でした。

では、「本丸跡」へと向かいます。

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このような階段を上っている途中で見えてくるのが、

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『戊辰の役 殉難招魂之碑』

この碑は、明治元年六月、戊辰の役の際に高鍋藩に出征命令が下り、北越・東北を転戦した時に殉死した高鍋隊の十一勇士を弔うための碑です。
戊辰の役では、高鍋藩とは親戚筋である米沢藩と相対することになったそうです。
激動の時代の中の避けられぬ戦いとはいえ、つらい時代です・・・。

さて、いよいよ本丸跡はもうすぐ。

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この階段を上ると、まず見えてくるのが、

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『長峰門跡』  本丸の正門らしいです。

そして、すぐ右脇には、

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『西南戦争の時、西郷軍に加わり殉難した七八名の慰霊記念碑』

明治10年の西南の役では、高鍋は「官軍」につくか「西郷軍」につくかで二派に分かれますが、最終的には「西郷軍」に参加します。田原坂の激戦など各地を転戦するものの、ついには官軍に降伏。この役に参加したもの700余人、戦死者78人、受刑者20人という甚大な戦災を被っています。

この碑に記されている碑文

高鍋は二派に分かれたとはいうものの、その目指すところは同じ正義であり、もしあの世で一同が会い、胸のうちを開き、打ち解けて語り合ったならば、すべては高笑いして済ますことであろう。 明治十四年中秋十五日

そして、ここが、

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『本丸跡』

いくつかの礎石が点在しているのが見えます。

本丸跡から、さらに道は上へと続きます。

すると、

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美しい「打込接(うちこみはぎ)の石垣」が見てきます。

この石垣は必見!
おそらく、宮崎在住の人たちも、ここまでの石垣が残っていることを知らないのではないでしょうか!! または、興味が無いか・・・。(-_-;)

そして、この石垣の上には、

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「三層櫓跡」

今では、足の踏み場もないほどに草木が生い茂っていますが、これがまたいい!!

宮崎(日向)の城といえば、地元では「飫肥城」や「佐土原城」が有名で、見学の人たちも多いのですが、いかんせん美しく整備され過ぎていて当時に思いを馳せるには物足りない。(そういう私も、もちろんのこと、真っ先に飫肥城・佐土原城を訪城し満喫させていただきましたが・・・。)

ここ「高鍋城跡」は、程よく整備されているので散策しやすく、かつ生々しさを残す遺構も存在しており、私の現時点での「三大 生々しい日向の城」の一つです。
ちなみに残りの二つは「都於郡城跡」と「宮崎城跡」。

ただ、生々しい城跡は『お城めぐり』ではなく『登山』。
疲れるんですよね・・・。(-_-;)

 

腹水胸水腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』

 

 

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