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我が家から車で20分も走れば、伊東氏48城の一つ「清武城址」に着きます。
自然の要害を利用した実践的な山城で、南北朝時代には『清瀧城』と呼ばれており、1300年代後半、伊東氏族の清武祐行により改築され『清武城』と改名。
清武城は「伊東氏48城」の中でも島津氏への守りとして最も重要な拠点であり、
伊東氏全盛時の11代「伊東祐尭」は、島津氏との戦いでの出陣中に、ここ清武城で病死しています。
1570年代、「伊東崩れ」により伊東氏は豊後落ちし、清武城は島津氏の所領に。
しかしながら、その後の豊臣秀吉の九州征伐により、清武城は再び伊東氏の領地となり、「稲津掃部助重政」が城主として入城します。
その後の元和元年(1615年)、一国一城令により廃城。
ここ「清武城」には切なくも悲しい話が残っています。
前述した清武城主・稲津掃部助重政は、若くしてその才能を認められ、朝鮮出兵時には伊東祐兵に重用され参陣するほどの人物。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦において、全国が東軍(徳川方)と西軍(石田方)に分かれた際、日向を含む九州南部の中で伊東氏だけが東軍方に加勢。
東軍方の「黒田如水」は伊東氏に西軍方を攻めるように命じ、稲津掃部助重政は、延岡藩「高橋氏」の「宮崎城」を攻め落とし、城主・権藤種盛を討ち取ります。
しかしこの時、西軍方と思われていた高橋氏は、すでに東軍方に寝返っていたため、結果として同士討ちとなり大問題に発展。
黒田如水は、自分自身に疑いが向けられたため、その責任を伊東氏に押しつけ、
また、これまで稲津掃部助重政の重用を好ましく思わない藩の重臣・松浦久兵衛らが、この責任を稲津掃部助重政ひとりに負わせようとします。
当然ながら、納得できない稲津掃部助重政は清武城に立てこもります。
この時、稲津掃部助重政の妻・「雪江」も城内で運命を共にします。
1602年、伊東氏の軍勢は城内に攻め込みます。
妻・雪江は、落城する清武城内で自害し、家臣・阿万三平が介錯。
稲津掃部助重政は、妻の自害の後に、最後まで付き従った家臣らとともに切腹。
指示通りに動き、望まれる結果を出しながらも、「指示する側の不手際」によって責任を負わされ、またこれに加えて周囲からの「嫉妬の思い」が重なり無念のうちに命を落とした稲津掃部助重政と雪江。
重政29年、雪江15年という短い生涯でした。
なんともやり切れない話です。
そんな清武城址に到着する前に、まず立ち寄ったのが、
『市指定史跡 伊東祐尭公墓』
この階段を、
上ると、
整備しているように見えますが、とても寂し気な公園。 そして奥に「案内板」
『伊東祐尭公墓』 (以下、原文)
伊東氏は工藤祐経を祖とし、祐経の子 祐時から伊東姓を称した。元来伊豆にいて日向地頭職を任じられていたが、建武二(一三三五)年、六代祐持が都於郡(現西都市)に下向してから日向にその基盤を築いた。
文安三(一四四六)年、都於郡城主となった十一代祐尭は武威を奮って四方に侵攻を開始、日知屋、門川、清武、田野の伊東氏族を攻めて勢力を吸収、戦国時代に突入すると日向平定をめざし、下向前からの日向勢力である土持氏を攻撃し、遠く県庄(延岡)へ圧迫して、島津氏と対峙するまでの強大な勢力となった。
文明十七(一四八五)年、飫肥の島津攻撃に出陣する子、祐国を見送った後、ここ清武城で病死した。伊東氏にとって日向に強力な地盤を築いた英主である。
案内板の横に、
祐尭公のお墓。(中央)
「伊東祐尭」を語らずして、『日向・伊東氏』を語ることはできないほどの人物なのですが、それにしても祐尭公のお墓のあるこの場所は侘しいばかり・・・。
では、城址に向かいます。
車で上がることはできないようなので、道路の傍らに車を止めて坂を上って行くと
『清武城址』の案内板。
ここから歩くこと数分、
このように道が開け、
『清武城址』 の石碑。
前述した「稲津掃部助重政」夫婦の話を思い出しつつ、しみじみと見学しました。
実はこの近くに稲津掃部助重政夫婦のお墓があるそうなんです。
知らなかったーー (-_-;) 調査不足 (-_-;)
いつものことだが・・・。(-_-;)
腹水・胸水・腎臓病専門 漢方カウンセラー西山の『薬匠堂 歴史探訪記』
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